大道芸観覧レポート モノクロ・フィルムでつづるkemukemu

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ハンナ・アーレント語録(32)

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映画「ハンナ・アーレント」の主人公
http://www.cetera.co.jp/h_arendt/keyword.html




イェルサレムアイヒマン』(みすず書房)から



<東方>



「判事はまた開戦の頃の二つの会議の議事録をも手もとに持っていた。
その一つは<部課長およびアイザッツグルッペン(*特務部隊)指揮官合同>として1939年9月21日にハイトリッヒが召集したもので、これには当時まだSS大尉だったアイヒマンはベルリンのユダヤ人移住本部を代表して出席している。
もう一つは1940年1月30日におこなわれたもので、<強制移動および移住の問題>を扱った。
どちらの会合でも占領地域の全住民の運命ーつまりポーランド人問題と<ユダヤ人問題>の解決が討議された。

 この早い時期にあっても、<ポーランド人問題の解決>は非常に進捗していた。<政府指導者層>のうち残されているのは3%にすぎないと報告されている。「この3%を無害にするために」彼らも「強制収容所に送らねば」なるまい。ポーランド知識階級の中間層ー「教員、聖職者、貴族、在郷軍人、再役将校等」-は登録され逮捕されねばならず、一方「無教養なポーランド人」は「移動労働者」としてドイツの労働力に加わり、故郷から「移動」させられねばならない。
「目標は次のようなものである。すなわちポーランド人は永久的な季節労働者、移動労働者となる、その定住地はクラクフ地方とする。」

ユダヤ人は都会へ集められ、「監視するに容易な、そしてその後再移送するのに都合にいいゲットーに集結させられ」ねばならない。ライヒ(*帝国)に併合されたこれらの東方地域ーいわゆるヴァルテガウ、東プロイセンダンツィヒポズナニ地方、上部シレジアーはただちにすべてのユダヤ人を追い出さねばならなかった。3万人のジプシーとともに彼らは貨車で総督府領へ送られた。
ヒムラーはその<ドイツ民族性強化本部総監>という資格で、ライヒ編入されたばかりのこれらの地域からポーランド人口の大部分を撤退させる命令を下した。
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(この否定的人口政策)は決して東方におけるドイツ軍の勝利の結果として間に合わせに立てられたのではないことは銘記しなければならない。
早くも1937年11月にヒットラーがドイツ軍最高司令部の幕僚に対しておこなった秘密の演説のなかにそのアウトラインは描かれているのである。(ヘスバッハ議事録)
外国を征服する考えはすべてしりぞけること、自分の求めるのはドイツ人を植民させるための東方の空白地域であることをヒットラーは闡明(せんめい)した。
この演説の聞き手は、そのような空白地域は存在しないことをよく知っていた。
だから彼らは、東方におけるドイツの勝利は自動的に全住民の<強制移動>を結果することを知っていたにちがいない。東方のユダヤ人に対する措置は単に反ユダヤ人主義の結果ではなかった。それは包括的な人口政策の部分をなすものであって、ドイツが戦争に勝ったならばこの政策の進行につれてポーランド人はユダヤ人と同じ運命ージェノサイドーを蒙(こうむ)らされただろう。
これは単なる推測ではない。ドイツ国内のポーランド人はすでに、ユダヤ人の星のかわりにPという文字のついた識別票を着用することを強制されていたのだ。そしてわれわれがすでに見たように、これは警察が破壊の仕事をはじめる場合、常にまず第一に取る措置なのであった。」



「・・・文書は鉄道の駅の近くにユダヤ人を終結することを特に挙げている。<ユダヤ人問題の最終的解決>という言葉があらわれて来ないことは特徴的である。
おそらく<最終目標>はポーランドユダヤ人の絶滅であって、これはあきらかに会合に参加した連中には全然目新しいものではなかった。新しかったことはただ一つ、あらたにライヒに併合された地方に住むユダヤ人がポーランドへ強制移動させられねばならぬということだけだった。なぜならこれは事実ドイツをユーデンライン(*ユダヤ人のいない国)にするための、従って最終的解決にむかっての第一歩だったからである。」



アイヒマンに関しては、この段階にあっても彼は東方でおこなわれていることに直接の関係がなかったことをこの文書(1939年9月にアイザッツグルッペン*特務部隊の指揮官にあてて送られた至急便)ははっきりと示している。
ここにおいてもまた彼の役割は<輸送>と<移民>の専門家のそれであった。
東方では<ユダヤ人問題専門家>は必要とされなかったし、特別の<指令>も無用だったし、<ユダヤ人の特恵的カテゴリー>も存在しなかった。
ユダヤ人評議会の議員すらも、ゲットーが撤去されてしまったときにはかならず殺されてしまった。例外はなかった。
なぜなら奴隷労働者に与えられた運命といえども、別種の、より緩慢な種類の死でしかなかったからである。
従ってユダヤ人役職者はユダヤ人の逮捕にも集結にも何の役割をも演じなかった。
この挿話全体は、軍のうしろでおこなわれた最初の乱暴な大量射殺の終りを示している。軍の指揮官たちが民間人の虐殺に抗議し、ハイトリッヒはユダヤ人、ポーランド人知識人、カトリック聖職者、貴族の完全な<決定的な一掃>を定めた協定をドイツ軍最高司令部と結ぶにいたったらしい。
しかしこの協定は、200万のユダヤ人を<一掃>せねばならないこの作業の大きさのために、ユダヤ人はまず最初にゲットーに集結されることと取決めていたのである。・・・」









(つづく)