大道芸観覧レポート モノクロ・フィルムでつづるkemukemu

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ハンナ・アーレント語録(33)

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映画「ハンナ・アーレント」の主人公
http://www.cetera.co.jp/h_arendt/keyword.html




イェルサレムアイヒマン』(みすず書房)から




ポーランド政府が1938年の秋に、ドイツ在住のすべてのポーランドユダヤ人は10月29日までにその国籍を失うという政令を出したことは事実である。
おそらくこの情報を得ていたからドイツ政府はこれらのユダヤ人をポーランドに向けて追放することを企て、ポーランドの意図を妨害しようとしたのであった。」




全体主義支配が、善悪を問わず人間の一切の行為がそのなかに消滅してしまうような忘却の穴を設けようとしたことは事実である。
しかし殺戮のすべての痕跡を除去しようとするー焼却炉で、また露天掘りの溝で屍体を燃やすことで、あるいはまた爆薬や火焔放射器や骨を粉砕する機械の使用によってーナツィの1942年6月以後の熱に浮かされたような試みが失敗を運命づけられていたと同じく、反対者たちを<言葉もなく人に知られぬままに消滅させ>ようとするすべての努力も空しかったのである。
忘却の穴などというものは存在しない。人間のすることはすべてそれほど完璧ではないのだ。
何のことはない、世界には人間が多すぎるから、完全な忘却などというものはあり得ないのである。かならず誰か一人が生き残って見て来たことを語るだろう。
従って何ものも<実際問題として無益>ではあり得ない、すくなくとも長い目で見れば。・・・・」



「政治的に言えば・・・恐怖の条件下では大抵の人間は屈従するだろうが、或る人々は屈従しないだろうということである。-ちょうど最終的解決の申出を受けた国々の与える教訓が、大抵の国では<それは起り得た>が、しかしどこでも起ったわけではなかったということだったのと同様に。・・・・」



「判決文は、ジプシーが絶滅されるために輸送されていることを被告(*アイヒマン)が知っていたとは法廷では証明されなかったとしている
ーつまり「ユダヤ民族に対する罪」以外にはジェノサイドの罪は問われていなかったのだ。これは理解に苦しむところである。
なぜなら、ジプシーの絶滅が周知の事実だったことは別としても、アイヒマン自身警察の取調の際それを知っていたと認めていたからだ。
これがヒムラーの命令だったこと、ユダヤ人についての指令が存在したようにはジプシーについての指令は存在しなかったこと、・・・を彼はぼんやりと覚えていた。彼の課は3万人のジプシーのライヒ領土内からの強制移動を実施することを命じられていたが、これについてはどこからも介入がおこなわれなかったので、彼はその細部についてはあまりおぼえていなかった。
しかしジプシーもユダヤ人と同じく皆殺しにされるために送られるのだということは、彼は全然疑っていなかったのだ。ユダヤ人の皆殺しが彼の罪であるのとまったく同様にジプシーの皆殺しも彼の罪だったのである。・・・・」




アイヒマンは自分は今告発されている罪の遂行を、<幇助および教唆>したことだけは認めるが、決して自分では犯行そのものをおこなっていないとこれまで一貫して主張していた。
判決は彼がその点で間違っていると検察側が立証し得なかったことを或る程度認めているが、人々はこれを見てほっとした。これは重要な点だったのである。
このことは尋常のものではなかったこの罪の本質、ありきたりの犯罪者ではないこの犯人の性格そのものに関係しており、また暗黙のうちに、死の収容所において実際に「みずからの手で死の道具」を動かしていたのは通常被収容者と犠牲者自身だったという奇怪な事実を認めることにもなるのだ。この点に関して判決の言うところは、単に妥当であるのみか、まさに真実そのものだった。・・・・」



「・・・・それからアイヒマンの最後の発言があった。
裁判にかけた自分の期待は裏切られた。自分は真実を語ろうとして最善をつくしたのに法廷は自分を信じなかった。法廷は自分を理解しなかった。自分は決してユダヤ人を憎む者ではなかったし、人間を殺すことを一度も望みはしなかった。自分の罪は服従のためであるが、服従は美徳として讃えられている。自分の美徳はナツィ指導者に悪用されたのだ。しかし自分は支配層には属していなかった。自分は犠牲者なのだ。そして指導者たちのみが罰に値するのだ。・・・・
「私は皆に言われているような冷酷非情の怪物ではありません。」とアイヒマンは言った。
「私は或る誤解の犠牲者なのです。」

・・・・・・・

二日後の1961年12月15日午前9時に死刑の宣告が言渡された。

・・・・(最高裁で再審)


(1962年)最高裁が判決を下してから二日後の5月31日に一切の恩赦請願を却下し、同じ日の数時間後、夜半しばらく前にアイヒマンは絞首され、屍体は焼却され、その灰はイスラエル領海外の地中海に撒き散らされた。」







(つづく)