大道芸観覧レポート モノクロ・フィルムでつづるkemukemu

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ハンナ・アーレント語録(34)

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映画「ハンナ・アーレント」の主人公
http://www.cetera.co.jp/h_arendt/keyword.html




イェルサレムアイヒマン』(みすず書房)から




「(*戦後)何も悪いことをしていないときに罪責を感ずるというのはまことに人を満足させることなのだ。何と高潔なことか!
それに反して罪責を認めて悔いることはむしろ苦しいこと、そしてたしかに気のめいることである。
ドイツの青年層は職業や階級を問わず、事実大きな罪を犯していながら一向にそんなことを感じていない権威ある地位の人々や公職にある人々に取巻かれている。
こうした事態に対する正常な反応は怒りであるはずだが、しかし怒ることは甚だ危険であろうー別に生命や身体にとっての危険ではなくとも、履歴のなかでのハンディキャップになるに違いない。時々ー『アンネ・フランクの日記』をめぐる騒ぎやアイヒマン裁判などの場合にーわれわれにヒステリカルな罪責感の爆発を見せてくれるドイツの若い男女たちは、過去の重荷、父親たちの罪のもとによろめいているのではない。むしろ彼らは現在の実際の問題の圧力から安っぽい感傷性へ逃れようとしているのである。」




「アードルフ・アイヒマンは従容として絞首台に上った。
彼は赤葡萄酒を一本注文し、その半分を飲んだ。一緒に聖書を読むことを申出た牧師ウイリアム・ハル師の助力を彼は謝絶した。
後に時間しか生きられない。だから<無駄にできる時間>はないというのだった。両手を背中で縛られたまま監房から処刑室までの五十ヤードを体をまっすぐ伸ばして静かに彼は歩いて行った。看守が足首と膝を縛ったとき、まっすぐ立てるように縄をゆるめてくれと彼は看守たちに言った。また、黒い頭巾を差出されたときには「そんなものは必要ない」と言った。
彼は完全に冷静だった。いやそれどころか彼は完全にいつもと同じだった。彼の最後の言葉の奇怪までの馬鹿々々しさ以上に徹底的にこのことを証明するものはない。
彼はまず力をこめて自分がGottgläubigerであることを言明した。これは普通にナツィが使っていた言い方で、自分はクリスチャンではなく、死後の生を信じていないことを表明したのである。
(それについては、あきらかにずっと前から準備されていた絞首台の下での最後の言葉が確実に証明している。その言葉は陰惨な喜劇性を持っていた。
「もうすこししたら、皆さん、どっちみちわれわれは皆再会するのです。それは人間の運命です。私は生きていたときGottgläubigerだった。Gottgläubigのまま私は死にます。」
彼はGottgläubigerというナツィ的な表現を意識的に使ったが、ただこの表現がキリスト教と死後の生への信仰の拒否を意味していることには気がつかなかったのである。)
「もうすこししたら、皆さん、われわれは皆再会するでしょう。それはすべての人間の運命です。ドイツ万歳、アルゼンチン万歳、オーストリア万歳!この三つの国は私が最も緊密に結ばれていた国だった。これらの国を私は忘れないだろう。」
死を眼前にしても彼は弔辞に用いられる極(きま)り文句を思い出したのだ。
絞首台の下で彼の記憶は彼を最後のぺてんにかけたのだ。彼は<昂揚>しており、これが自分自身の葬式であることを忘れたのである。
 それはあたかもこの最後の数分間のあいだに人間の悪についてのこの長い講義がわれわれに与えて来た教訓ー恐るべき、言葉に言いあらわすことも考えるみることもできぬ悪の陳腐さという教訓を要約しているかのようだった。」








(つづく)