大道芸観覧レポート モノクロ・フィルムでつづるkemukemu

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ハンナ・アーレント語録(37)

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映画「ハンナ・アーレント」の主人公
http://www.cetera.co.jp/h_arendt/keyword.html




イェルサレムアイヒマン』(みすず書房)から



「つまり被告(*アイヒマン)は正当に逮捕され、イスラエルに引渡されたのではなかった。それどころか、彼を裁きに服せしめるために国際法に対する明白な侵犯がなされたのである。
イスラエルが拉致などということで問題を解決できたのはひとえにアイヒマンの事実上の無国籍のためだったということは前に触れた。

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この拉致を正当化する理由は犯罪の先例のなさとユダヤ人国家の成立ということだった。
さらにまた、アイヒマンを裁きに服せしめることを実際に望んだとすればほかに取る手段はまずなかったという点に情状酌量の余地もあった。
それまでアルゼンチンがナツィ犯罪者を引渡さなかった例は驚くほど多かった。たといイスラエルとアルゼンチンとのあいだに犯人引渡協定が存したとしても、引渡要求が容れられなかったことはほとんど確実だった。またアイヒマンをアルゼンチン警察の手に渡して西ドイツに引渡させることもできなかったろう。

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アルゼンチンの法律によれば前大戦に関係あるすべての犯罪は終戦後15年で時効にかかるので、1960年5月7日以後はアイヒマンは法律的には全然引渡しの対象になり得なかったのだ。要するに法律の範囲内では拉致に代る方法はなかったのである。」




「たしかに裁判はこの場合も<見せもの>裁判であり、まさに芝居ですらあるのだが、その<主人公>、つまり劇の中心におり、すべての人の目を捉えて放さない人物は今や本当の<英雄>なのだ。
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彼ら自身の歴史との関連においてのみ物事を考えるユダヤ人の目には、ヒットラーのもとで彼らを襲い、彼らの民族のうちの三分の一がそのなかで死んだあの大災厄は、最新式の犯罪、ジェノサイドという先例のない犯罪ではなく、彼らの記憶している最も古い犯罪と映じた。
この誤解は、ユダヤ人の歴史の諸事実だけでなく(このほうがもっと重大なのだが)現在のユダヤ人の歴史的な自己理解をも考慮すればほとんど不可避的なものなのだが、実際イェルサレム裁判のすべての誤謬と欠陥の根底にあったのはこの誤解なのだ。
関係者は一人として、過去のすべての残虐行為とは性格を異にするアウシュヴィッツの実際の惨事を理解するに至ってはいない。なぜならこの惨事は検察官の目にも裁判官の目にも、ユダヤ人の歴史の上で最も凄惨をきわめたポグロームをはるかに上まわるものとは映じなかったからだ。
それ故彼らは、ナツィ党初期の反ユダヤ人主義からニュールンベルク法へ、そしてニュールンベルク法からユダヤ人のライヒからの追放へ、最後のガス室へと一本の直線が通じていると思っていた。
ところが政治的にも法的にもこれらの犯罪は、単にその重大性の度合のみではなく本質も異なる犯罪だったのである。」







(つづく)