大道芸観覧レポート モノクロ・フィルムでつづるkemukemu

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ハンナ・アーレント語録(38)

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映画「ハンナ・アーレント」の主人公
http://www.cetera.co.jp/h_arendt/keyword.html




イェルサレムアイヒマン』(みすず書房)から



「 1935年のニュールンベルク法は、ドイツがユダヤ人少数者に対して以前からおこなっていた差別を合法化した。
国際法によれば、彼らの少数民族法が国際的に認められた少数民族条約や協定に定められている権利ならびに保障に従うかぎり、ドイツ国民がそれに該当すると見る住民中のいかなる部分を少数民族と宣言しようとも、それは主権あるドイツ国民の権利だった。
だから国際ユダヤ人組織はただちに、ジュネーヴ協定で東欧および南東欧の少数民族が与えられているのと同じ権利と保障をこの新しい少数民族のために獲得することに努めた。
ところがこの保護が与えられていなかったにもかかわらず、ニュールンベルク法はドイツ国法の一部として他の諸国民に一般的に認められ、そのためドイツ国籍者はたとえばオランダで<離婚>(ユダヤ人と結婚する)ことはできなくなった。それは国民の憲法上の権利と自由を犯したが、国際的礼儀(国際社会)には関係しなかった。

これに反して、<強制移住>すなわち追放は1938年以後公式の政策となったのだが、これは国際社会に関係した。
追放された人々が他国の国境にあらわれ、その国はこの招かれざる客を受入れるか、もしくはこれまた受入れを好まない他の国へもぐりこませるかのいずれかを余儀なくされたという簡単な理由からである。
換言すれば自国籍者の追放ということは、<人道>という言葉を国際的礼儀にほかならぬと解すれば、それだけでもう人道に対する罪なのである。
法による迫害にほかならぬ差別の合法化という国内的な罪も、追放という国際的な罪も、近代においてすら先例のないものではなかった。合法化された差別はすべてのバルカン諸国がおこなっていたし、大量の追放は数々の革命の後に起った新しい罪、人道に対する罪ー<人間の地位に対する>、あるいは人類の本性そのものに対する罪という意味におけるーが出現したのは、ドイツ国民はドイツ国内にユダヤ人がいるのを好まないだけではなく、ユダヤ民族全体を地球上から抹殺することを願っていると宣言したときだった。
追放とジェノサイドとは、二つとも国際的罪ではあるが、はっきりと区別されなければならない。前者は隣国の国民に対する罪であるのに対して、後者は人類の多様性、すなわちそれなしには、<人類>もしくは<人間性>という言葉そのものが意味を失うような<人間の地位>の特徴に対する攻撃なのだ。」



「 イェルサレムの法廷が人種差別、追放、ジェノサイドの三者のあいだに差異が存することを理解していたとすれば、自己の直面する最高の罪、すなわちユダヤ民族の肉体的絶滅というものは、ユダヤ人の身において為された人道に対する罪だったこと、ユダヤ人憎悪と反ユダヤ人主義の長い歴史から説明し得るのは罪の性格ではなくその犠牲者の選択のみであることが、たちまちあきらかになったことだろう。犠牲者がユダヤ人だったというかぎりで、ユダヤ人の法廷が裁判をおこなうことは正当であり妥当であった。
が、その罪が人道に対する罪だったかぎりでは、それを裁くには国際法廷が必要だったのだ。法廷がこの区別をおこない得なかったことは意外である。なぜならイスラエルの前法相ピンハス・ローゼン氏が事実すでにこの区別をおこなっていたからである。ローゼン氏は1950年に、「この〔ユダヤ人に対する罪を扱う〕法案とジェノサイドの防止および処罰のための法律(これはイスラエルの議会で討議されたが可決されなかった)との相違」を力説していた。あきらかに法廷は国内法の限界を越える権利はないと思っており、そのためイスラエルの法律が扱っていないジェノサイドを問題することはできなかったのである。

イェルサレムの法廷に対して異議を唱え、国際裁判を支持した数多くの優れた人々のなかで、ただ一人カール・ヤスパースだけがー裁判開始前におこなわれた、ラジオ・インタヴューのなかでー「ユダヤ人に対する罪は人類に対する罪でもあり」、「従って判決は全人類を代表する法廷によってのみ下され得る」ときわめて明確に言明した。
ヤスパースイェルサレムの法廷が証拠事実をあきらかにした後、問題となっていた罪の法的性格についてはまだ議論の余地もあるし、また政府の命令によって犯された罪に判決を下す権限は誰にあるかという附随的問題にも同じく議論の余地がまだ残っていると言明して、判決を下す権利を<放棄>することを提案した。
さらにヤスパースは、或る一事だけは確実であると述べた。
「この罪は普通の殺人以上でも以下でもある」しかもそれは戦争犯罪ではないが、「もし諸国家がこのような罪を犯すことを許されていたならば人類は確実に滅亡する」ことは疑いない、と。

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ヤスパースが法廷ではなくイスラエル国家にむかって、法廷であきらかにされたことの先例のない性格を考慮して一旦下された判決を執行する権利を放棄するように呼びかけたとすれば、これらのまったく形式的な反対論はしりぞけられたろう。
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自分が捕えているこの男をどうすべきかということをくりかえし問いかけることで騒ぎをひきおこし<健全な不安をかきたてる>ことは、イスラエルにもできたはずである。
不断の反復は常設の国際刑事裁判所の必要を全世界の輿論に印象づけたことであろう。
このようにして全世界の国々の代表者たちを<厄介な立場>に陥れることによってのみ、「人類が安心する」のを妨げ、そして「ユダヤ人殺戮が・・・・将来の犯罪のモデル、未来のジェノサイドのおそらく小規模な、まったく取るに足りないような手本となる」ことを妨げることができるだろう。
一国民のみしか代表していない法廷では、事柄の巨大さは、<極小化>されるのだ。」







(つづく)