大道芸観覧レポート モノクロ・フィルムでつづるkemukemu

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ハンナ・アーレント語録(39)

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映画「ハンナ・アーレント」の主人公
http://www.cetera.co.jp/h_arendt/keyword.html




イェルサレムアイヒマン』(みすず書房)から



ユダヤ民族に対する罪は何よりもまず人類に対する罪であるという議論ー国際法廷についての説得力の提案はこれにもとづいているのだがーはそれによってアイヒマンが裁かれる法律とは決定的に逆行していた。
だからイスラエルがその囚人を引渡すことを提案する人々は、もう一歩進んで、1950年のナツィおよびナツィ協力者処罰法は間違っている、それは現実の事態に添っていないし、すべての事実をカヴァーしていないと言明すべきだったのだ。そして事実それはまったく正しかったろう。
殺人犯が訴追されるのは共同社会の法を破ったからであって、スミスなり誰なりの家族から良人や父や稼ぎ手を奪ったからでないのとまったく同様に、これらの近代的な、国家に雇われた大量殺人者が訴追されねばならぬのも人類の秩序を破ったからであって、数百万の人々を殺したからではない。
殺人の罪とジェノサイドの罪は本質的に同じものであり、後者はそれ故「厳密に言えば新しい罪ではない」という一般の誤解以上に、これらの新しい罪の正しい理解にとって有害なもの、乃至は、これらの罪を扱い得る国際刑法の出現を阻むものはない。
ジェノサイドの特質は、まったく別の秩序を破壊し、まったく別の共同社会を侵害することにあるのだ。・・・」



「一度おこなわれ、そして人類の歴史に記された行為はすべて、その事実が過去のことになってしまってからも長く可能性として人類のもとにとどまる。これが人間のおこなうことの性格なのである。
かつていかなる罰も人間が罪を犯すのを妨げるに足る阻止力を持たなかった。反対に、どのような罰がおこなわれたにせよ、これまでになかった或る罪が一度おこなわれてしまえば、それがふたたびおこなわれる可能性は最初におこなわれる場合よりも大きいのだ。
ナツィが犯した罪がくりかえされる可能性を支持する特殊的な理由のほうはもっとはっきりしている。
近代の人口の爆発的な増加と、オートメイションによって人口の大きな部分を労働力の点から言っても<過剰>にする技術手段の発見とは時を同じゅうする。しかもこの技術手段は核エネルギーによって、ヒットラーのガス殺設備もそれにくらべれば子供のおもちゃみたいに見える道具を使ってこの過剰人口の脅威を解決することを可能にする。この恐るべき一致はわれわれを戦慄せしめるに充分であろう。
 先例のないことも一旦出現してしまえば将来のための先例になるかもしれない。・・・・・・・」



「 イェルサレム法廷の結論はニュールンベルクのそれよりも比較にならぬほど適切だった。

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判決文はこの犯罪の基本的な性格が残虐行為の氾濫のなかに呑み込まれてしまうことを許さず、またこの罪を通常の戦争犯罪と同列視するという罠に陥ってもいない。ニュールンベルクでは単に時たま、しかも謂わば欄外でしか触れられなかったことー「証拠の示すところでは・・・・大量虐殺と残虐行為は単に反対を押潰すという目的のためにおこなわれたのではなく」、「その土地の住民全体を取除く計画の一部」だったということーはイェルサレムの審理の中心に据えられていたが、その理由は勿論、アイヒマンユダヤ民族に対する罪、すなわちいかなる功利的目的によっても説明され得ない罪に問われていたからである。

ユダヤ人は東方だけでなくヨーロッパ全土で殺された。そして彼らを皆殺しするのは「ドイツ人の植民のために利用され得る」領土を得たいという欲望のためではなかったのだ。
パルティザンの射殺や人質の殺害のような通常の戦争犯罪と侵略者による植民を可能にするための住民の追放や絶滅のような<非人間的行為>との相違を将来の国際刑法に組入れられるほどはっきりと浮き出させただけではなく、<非人間的行為>(たとえば植民による国土拡張といったような、犯罪的であるが既知の何らかの目的のためにおこなわれる)と、先例のない意図や目的を持った<人道に対する罪>との相違をもはっきりさせたということは、ユダヤ人に対する罪を集中的に扱った裁判の大きな利点であった。

けれどもイェルサレム裁判は審理や判決のどの箇所においても、人種集団ーユダヤ人であれポーランド人であれジプシーであれー全体の殲滅はユダヤ人もしくはポーランド人もしくはジプシーという民族に対する罪以上のものだったかもしれず、国際秩序のみならず人類全体がこれによって重大な損害を蒙り危険に見舞われたかもしれないということには触れなかったのである。
 判事たちが何としても免れられないその課題、つまり自分たちが裁くことになった犯罪人を理解することという課題に直面したとき彼らの示したあきらかな頼りなさは、この欠陥と密接に関係している。・・・・」






(つづく)