大道芸観覧レポート モノクロ・フィルムでつづるkemukemu

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ハンナ・アーレント語録(40)

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映画「ハンナ・アーレント」の主人公
http://www.cetera.co.jp/h_arendt/keyword.html




イェルサレムアイヒマン』(みすず書房)から




アイヒマンという人物の厄介なところはまさに、実に多くの人々が彼に似ていたし、しかもその多くの者が倒錯してもいずサディストでもなく、恐ろしいほどノーマルだったし、今でもノーマルだということなのだ。
われわれの法律制度とわれわれの道徳的規準から見れば、この正常性はすべての残虐行為を一緒にしたよりもわれわれをはるかに慄然とさせる。
なぜならそれはーニュールンベルク裁判でくりかえしくりかえし被告やその弁護士が言ったようにー事実上hostis generis humani(*人類共通<一般>の敵)であるこの新しい型の犯罪者は、自分が悪いことをしていると知る、もしくは感じることをほとんど不可能とするような状況のもとで、その罪を犯していることを意味しているからだ。これについての証拠は、主要戦犯裁判に見られたものよりもアイヒマン裁判のときのもののほうがもっと説得的である。
主要戦犯たちがいくら良心に疚(やま)しいところはないと誓っても、<上からの命令>への服従という弁解とともに場合によっては服従しなかったという豪語も見られたのだから、彼らの誓などは無視してもいい。
しかしこの被告たちが正直でなかったことはあきらかだったとしても、彼らが疚しい良心を持っていたことを現実に証明する唯一の根拠が、戦争の最後の数か月のあいだ罪証湮(いん)滅におおわらわだったという事実だけだった。これはむしろ薄弱な根拠でしかない。
それは次のようなことを彼らが認識していたことの証明にしかならない。
すなわち、大量虐殺の掟はその新規さの故にまだ他の国々に受容れられていないということ、あるいはナツィ自身の言い方によれば、<人間以下の人間の支配>、特に<シオンの賢者たち>の支配から人類を解放する闘いに彼らが敗れたということである。要するに、一般人の言葉で言えばそれは敗北の自認を証明しているだけなのだ。彼らが勝ったとすれば彼らのうち一人でも良心の疚しさに悩んだだろうか?・・・・」



「今ここであきらかになったことは、巨大な前代未聞の犯罪をかかえたヒットラー体制は、単にドイツ国民や全世界のユダヤ人にとってのみならず、ヨーロッパの中心で起ったこの大災厄を忘れておらず従ってそれと和解することもできないでいる世界のすべての人々にとっても、<克服されていない過去>をなしているということだった。
のみならずーこれはおそらくもっと(も)予期にそむくことであろうがー今日なお人々につきまとい重くその心にのしかかっていようなどとは私には夢にも思えなかった。近代的に複雑に屈折した一般的な道徳的問題が突然一般の関心の前面にあらわれていたということだった。・・・」








(つづく)