大道芸観覧レポート モノクロ・フィルムでつづるkemukemu

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ハンナ・アーレント語録(42)

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映画「ハンナ・アーレント」の主人公
http://www.cetera.co.jp/h_arendt/keyword.html




イェルサレムアイヒマン』(みすず書房)から




「 無思想性と悪とのこの奇妙な相互連関を検討することよりも一見複雑のように見えるが、実はそれよりはるかに単純なのは、実際ここで問題になっているのはいかなる罪かーしかもこの罪は先例のないものと万人が認めているのだがーという問題である。
これまで知られていなかった罪を定義するためにわざわざ持出されたジェノサイドという概念も、或る点までは適用可能であるが、それだけで充分だというわけには行かない。その理由は単に、民族全体の殺戮ということは先例のないことではないということだ。
古代においてジェノサイドは一般的であったし、また植民と帝国主義の世紀には成功不成功の程度はさまざまだがこの種の試みの例はいくらでもある。<行政的殺戮>という言葉のほうが適切かもしれない。・・・・・・
しかしこの言葉は、こんな凶行は他民族あるいは他人種に対してのみおこなわれると謬見を取除く効能を持っている。
ヒットラーが<不治の病人>の<安楽死>をもってその大量殺人の口火を切り、<遺伝的欠陥のある>ドイツ人(心臓病および肺病患者)をかたづけることでその皆殺し計画を完了する意図を持っていたという周知の事実がある。
しかしそのことは別としても、この種の殺害はいかなる集団にも適用できる、つまり選択の基準はもっぱらその時々の要因に応じてどうでも変るということはあきらかである。
近い将来、経済のオートメイション化が完成した暁には、知能指数が或るレヴェル以下の者をすべて殺してしまおうという誘惑に人間は駆られないものでもない。
 この問題は法律的に捉えることが実際上甚だ困難であるため、イェルサレム(*裁判)では適切に論ぜられなかった。・・・」




「・・・・しかし彼(*アイヒマン)が常に上からの命令によって動いていたことは否定し得ぬ事実であり、もし通常のイスラエルの法律の規定が彼に適用されたならば、最高刑を彼に課することは事実困難だったろう。他の諸国の裁判におけると同じくイスラエルの法も理論上また事実上、たといその<不法性>が<明白>であろうと、<上からの命令>という事実は人間の良心の正常な働きをいちじるしく阻害するということを認めるほかないというのが真相なのである。
 以上のことは、国家機構によって組織された行政的殺戮という事実を扱うためには、現在の支配的法体系も慣用されている法律上の概念も不充分であることを証明する多くの事例のうちの一つにすぎない。・・・・」



「上層の社会全体が何らかの形でヒットラーに屈服してしまった以上、社会的行動を規定する道徳的格律や良心を導く宗教的戒律ー「汝殺すなかれ」-実質的には消え去ってしまったのだ。
今なお善悪を弁別することのできるあの少数者は実際に自分自身の判断によって行動した。しかも彼らは自由にそうしたのだ。彼らの直面する特定の問題を包含し得る墨守すべき準則はなかった。彼らは問題が起って来る毎に一々決定を下さねばならなかった。先例のない事柄には準則は存在しなかったからである。・・・・・・


すべてのドイツ系ユダヤ人は一致して、1933年にドイツ国民を呑みこみ、一夜にしてユダヤ人を賤民としてしまった国家統制の波を非難した。
もし自分らもそうすることを許されていたらどれほど多くの仲間がこの統制に喜んで服するかと自問してみる者が、ユダヤ人のなかに一人もいなかったなどということが考えられるだろうか?
しかしまたそれだからといって、当時の彼らの非難が今日から見て正しくなかったということにはならないが。・・・」








(次回で終わり)

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