大道芸観覧レポート モノクロ・フィルムでつづるkemukemu

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ハンナ・アーレント語録(イェルサレム了)

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イェルサレムアイヒマン』(みすず書房)から



「 検証し得る事実と個人的責任とから逃げ出すもう一つの手は、非特定的で抽象的な仮説ー時代精神からエディプス・コンプレックスにいたるまでのーにもとづく無数の理論を引っぱり出すことだ。
これらはきわめて一般的で、どんな出来事でもどんな行為でも説明し正当化してしまう。現実に起ったことのかわりに何があり得たかなどということは一向に考慮に入れられず、いかなる人間も自分が現実にやった遣り方以外のことはできなかったのである。

すべての細部をぼかすことですべてを<説明>するいろいろの構成概念のなかには、たとえばヨーロッパのユダヤ人のあいだに見られる<ゲットーの心理>というような観念がある。
あるいはまた、ドイツ史についての特定の解釈から導き出されたドイツ国民の共同罪責という観念だの、これもまた同じ程度に馬鹿げているユダヤ民族の共同の無罪といった種類の主張だの。
これらすべての極り文句には、判断というものを不必要にすること、それを口に出しても何の危険もないことという共通点がある。
そして私たちは、この災禍から実際に痛手を受けた人々ードイツ人でもユダヤ人でもーが、全体的な道徳の崩壊によって傷つけられなかったように見える。もしくは傷つけられなかったはずの集団や個人の振舞ーつまり、キリスト教会、ユダヤ人社会の指導者たち、1944年7月20日の反ヒットラー陰謀の参加者たちの振舞ーをあまりにも詳細に検討することに抵抗を感じることは理解し得る。
たしかにその気持ちは理解し得るものだが、しかしそれでは、個人の道徳的責任にもとづいて判断することへの抵抗ーいたるところはっきりと見られるこの抵抗を説明するには不充分なのだ。

 今日多くの人々は、共同の罪責とか同じく共同の無罪というようなものは存在しないし、またもしそんなものが存在するとすればいかなる個人も有罪もしくは無罪であり得ないということを認めるだろう。
このことは勿論、政治的責任というようなものが存在することを否定するものではない。この責任は、集団の個々のメンバーが何をし、そのために道徳的に裁かれるとか刑事法廷に引出されるとかといったこととはまったく関係なしに存在するのである。すべての政府は以前の政府の正不正を問わず一切の行為について責任を負うし、すべての国民は過去の正不正を問わず一切の行為に責任を負う。・・・・

一般的に言えば、すべての世代は歴史の持続のなかに生れて来たというそのことによって、父祖の行為の恵みを受けていると同時に父祖の罪をも負わされている、という以上の意味はそこにはないのだ。しかしこの種の責任はわれわれがここで論じているものではない。それは個人的なものではない。
人は単に比喩的な意味で、自分は自分の父もしくは自分の属する国民のなしたことについて罪責を感じると言い得るにすぎない。
道徳的に言えば、何か特定のことをしないでいて罪責を感じるのは、実際に何かの罪を犯しながらいかなる罪責をもおぼえないのにくらべてそれほど正しいわけではない。

国際間の責任が将来国際法廷で裁かれる日が来ることも大いに考えられる。しかしそのような法廷が個人の有罪無罪を宣告する刑事法廷であろうとは考えられない。

そして個人の有罪無罪の問題、被告と被害者の言分を聞いて裁きを下す行為、刑事法廷において要求されているのはそれだけなのである。
イェルサレム法廷が裁かねばならなかったのは法典に見当たらない犯罪、すくなくともニュールンベルク裁判以前には他のいかなる法廷でも見られなかった犯人だったとしても、このアイヒマン裁判もその点については例外をなすものではなかった。
私のこの報告は、どの程度までイェルサレム法廷が正義の要求を満たしたかということ以外には何も語っていないのだ。」







(『イェルサレムアイヒマン
  悪の陳腐さについての報告       了)



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