大道芸観覧レポート モノクロ・フィルムでつづるkemukemu

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ハンナ・アーレント語録2-(1)

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全体主義の起原3全体主義』(新装版・みすず書房)から




「『全体主義の起原』の原稿ができあがったのは1949年の秋、ドイツの敗北から四年余の後、スターリンの死に先立つこと四年足らずの時期だった。
初版は1951年に出版された。振り返ってみると、私がそれを書いていた1945年以降の数年は、動乱と混乱と全くの恐怖の数十年の後に訪れた相対的平穏の最初の時期だったように思えるーそれに先立つ数十年は、第一次世界大戦後の諸革命、全体主義運動の擡頭、議会制政治の土台の浸蝕、それに続くに、ファシストや半ファシストの独裁、一党独裁軍事独裁などのありとあらゆる種類の新しい専制、そして最後には、現在ではよく「第二革命」と呼ばれている年、1929年のロシアと、1933年のドイツにおける、大衆の支持に立った全体主義政権の一見堅固と見えた確立の時代だった。
 ナツィ・ドイツの敗北によって物語の一部は終幕を迎えた。これは、歴史家の過去への目と政治学者の分析意欲とをもってわれわれの時代の諸条件を見渡すのに適した最初の時期だと思えた。「憎悪も好意も持たず」などとは言えず、痛みと悲しみに満たされ、それ故に歎きの口調を免れはしないが、しかし口も利けない憤激と無気力な恐怖からは立ち直って、何が起ったのかを語り理解することを試みる最初の機会が訪れたのだと思えたのだ。いずれにせよそれは、私の世代が青成年期のほとんどにわたってそれを抱きつつ生きなければならなかったあの問いー何が起ったのか?なぜ起ったのか?どのようにして起り得たのか?-を明確に口に出し、詳(つまび)らかに語ることのできるようになった初めての時点だった。」




全体主義政権がその隠れもない犯罪性にもかかわらず大衆の支持によって成立していたという事実は、確かにわれわれに非常な不安を与える。
それ故に、往々にして学者がプロパガンダや洗脳の魔術を信じることでこの事実を認めるのを拒否し、また政治家が、例えばアーデナウァーがよくやったようにこの事実を頭から否定しまうのも、驚くには当らない。
戦争中、1939-1944年のドイツの世論に関してSS公安部が出した秘密報告が最近(1965年)出されたが、この報告はこの点に関して非常に多くのことを明らかにしてくれる。
その第一は、いわゆる秘密ーポーランドにおけるユダヤ人大量殺戮、ロシア攻撃の準備等々ーについて住民は驚くほどよく情報を得ていたこと、そして第二は、「プロパガンダの犠牲者がどの程度まで自主的な意見を形成する能力をまだ残していたか」という点についてである。しかしながら問題の核心は、このことがヒットラー体制に対する一般の支持を少しも弱めはしなかったという点なのである。全体主義に対する大衆の支持は無知からくるのでも洗脳からくるのでもないことは、全く明白である。」



「明らかに、戦争の終結はロシアの全体主義的支配の終焉を招きはしなかった。それと反対に戦争の後に来たものは東ヨーロッパのボルシェヴィズム化、すなわち全体主義支配の拡大であり、そして平和が提供したものといえば、二つの全体主義体制の方法と制度における類似点と相違点を分析できるようになったという、重要な転換点だけでしかなかった。
決定的だったのは戦争の終結ではなく、その八年後のスターリンの死である。・・・・・
ドイツではヒットラーは、全体主義的支配を発展させ謂わばそれを完成するために意図的に戦争を利用したのだが、これと反対にロシアでは、戦争の時期は全体的支配が一時的に中断されていた時代だった。・・・」







(つづく)

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