大道芸観覧レポート モノクロ・フィルムでつづるkemukemu

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ハンナ・アーレント語録2-(2)

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全体主義の起原3全体主義』(新装版・みすず書房)から




フルシチョフの驚くべき自白(*1956年2月、ソ連共産党第一書記フルシチョフは、第20回党大会でスターリンの個人崇拝、独裁政治、粛清の事実を公表しスターリン体制を批判した)はーもっとも彼の聴衆も彼自身も全面的に実際の事件の渦中にいた人物だという明白な理由から、彼の演説では暴露したことより隠しておいたことのほうが相当に多いのだがーかえって多くの人々の目にスターリン体制の恐るべき犯罪性を矮小化して示すという不幸な結果を生んだ。
スターリン体制の犯罪性は結局のところ、僅か数百か数千の著名な政治家や文学者の名誉棄損や殺害にだけあったのではなくーこれらの人々に対しては死後に「名誉回復」を行なうことができるだろうがー、何びとも、スターリンですらも「反革命的」活動の嫌疑をかけることは不可能だった数百万の文字とおり無告の民の殲滅にこそあったのである。
まさにフルシチョフはいくばくかの犯罪を認めることによって体制の犯罪性全体を隠蔽したのであり、そして現在のロシアの支配者たちー彼らはすべてスターリンのもとで訓練され昇進した人々なのだーのこのカムフラージュと偽善に対してこそ、ロシア知識人の若い世代が今はほとんど公然と叛逆しているのである。なぜなら彼らは、「大量粛清や各地の民族全体の追放と絶滅」について知るべきことを知っているからである。

アーレント注)第1次5ヵ年計画(1928-1933)の犠牲者数は九百万乃至千二百万人と推定されているが、これにはさらに大粛清の犠牲者が加算されねばならず、その見積数は処刑者が三百万、逮捕され追放された者が五百万乃至九百万である。(・・報告)
しかしこれらの推定はいずれも実際の数より少ないと思われる。それには、「ドイツ占領軍がヴィニッツァ市において、1937年と1938年に処刑された人々の死体数千が埋められている巨大な墓穴を発見」(1961報告)するまでは全く知られていなかった数々の大量処刑が含まれていない。言うまでもないことだが、この最近の発見の結果、ナツィとボルシェヴィキーのやり方は以前にもまして同一の型の二つのヴァリエイションであると思えてくる。

そのうえ、犯罪として認めることは認めながら、その犯罪に対してフルシチョフが行なった説明ースターリンの気狂いじみた疑り深さーは、全体主義のテロルの最も特徴的な側面を隠蔽してしまった。このテロルは、すべての組織的反対勢力が死滅し全体主義の支配者がもはや恐れる必要のあるものは何ひとつないことを知ったときにはじめて解き放たれるのである。
このことは特に特にロシアにおけるその動向についていえる。
スターリンが彼の大規模な粛清を開始したのは、「われわれには内部の敵がいる」ことを彼が認め、実際に憂慮すべき理由が存在した1928年ではなかったー当時ブハーリンは彼をジンギス・カンになぞらえ、スターリンの政策は「国を飢饉と破滅と警察支配に導く」と確信していた(その後実際にそうなったのだが)。
ところが粛清の開始は1934年であり、その時にはすでにかつての反対者はすべて「自分たちの誤りを告白し」、スターリン自身も、彼が「勝利者の大会」と呼んでいた第17回党大会(*1934年)において、「この大会では・・・・もはや立証すべきことは何もないし、闘う相手も残っていないようだ」と宣言していた。
第20回党大会(*1956年、フルシチョフ政権時代)がソ連にとって、また共産主義運動全体にとってセンセイショナルな性格を持っていたことも、また決定的な政治的重要性を持っていたことも、ともに疑う余地はない。
しかしこの重要性は政治的なものであって、ポスト・スターリン時代の公式資料が以前の出来事を照らした光を真実の光と見誤る
ようなことがあってはならないのである。・・・・」







(つづく)

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