大道芸観覧レポート モノクロ・フィルムでつづるkemukemu

大道芸、昔の広告、昔のテレビ番組、中井久夫、フーコー

ハンナ・アーレント語録2-(8)

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全体主義の起原3全体主義』(新装版・みすず書房




「階級や集団の清算に必ず先行して行なわれたロシアの粛清裁判は、無構造の「階級なき社会」だけでなくアトム化した大衆社会をも創出するという目的に奉仕している。
このことは技術的には、告発がどの場合も個々の該当者だけでなく、彼の普通の人間関係に含まれるすべての人間、つまり家族、友人、仕事上の同僚、知人のすべてを巻き込むことによって達成される。・・・・
この原理はあらゆる恣意的な暴力支配にとってきわめて好都合であることは充分知られている。
ナツィは単に旧来の法に対する合法性だけでなくおよそ一切の合法性の基礎を掘り崩すことを狙って、この原理を充分に活用した。やはりヒットラー・ドイツでも「ユダヤ人と交際する者はユダヤ人である」とされたのである。
しかしソ連においてはこの原理が社会の基本的体質の一つとなるまでに一般化され体系的に利用されたという限りでは、この原理の本来の徹底化はやはりボルシェヴィキー型の全体主義独裁の一特質になっていたと言えよう。
誰かが後発されるや否や、彼の友人は一夜にして最も激烈で危険な彼の敵とならざるを得ない。彼の罪を密告し警察と検察側の調書にたっぷり中身を盛り込むことに協力することで、われとわが身の安全を守ることができるからである。
一般に告発はありもしない犯罪について行われるのだから、間接証拠をでっち上げるためにはまさにこの友人たちが必要とされる。
粛清の大波が荒れ狂っている間は人々が自分自身の信頼性を証明する手段はただ一つしかない。自分の友人を密告すること、これである。そしてこれは、全体的支配および全体主義運動の成員から見ればまことに正しい尺度であって、ここでは事実、友人を裏切る用意のある者のみが信頼に足る人間である。
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「友人」足る者が証明すべきことはなかんずく、被告とのつきあいは彼をスパイするための口実であって、彼がサボタージュ分子か、トロッキストか、外国の手先か、あるいはファシストかーこれはそのときの告発の内容次第だがー否かを採り出すのが目的だったということである。
この種の証拠は友人によってしか得られないことは明だから、平均的なソヴェート市民は警察の無数の粛清活動の中で次の一つのことを学んだことは確かである。すなわち。およそ友人を持つほど危険なことはない、それも友人との間に知らず知らずのうちに親密さが生れてうっかり本心を洩らす危険があるからではなく、自分が危地に立ったときその自分を破滅させることに最大の関心を持つのは自分と最も親しく結ばれた人間にほかならないからである。」



スターリンはまず共産党内の諸分野を壊滅させてしまうと、党の方針を右に左に猫の目のように変えることで党綱領を有名無実なものにした。「マルクシズム」に絶えず違った新解釈が下されることで、その具体的で把握可能な内容はすべてひとりでに消滅してしまったのである。
どんなにマルクスレーニンの理論を学ぼうと党の方針が明日はどの方向に向かうかの予測には役立たず、そういう決定的な重要な知識は、前の日にスターリンが言ったことを毎朝伝える新聞からしか得られないという基本的な事実は、綱領のすべての内容の空疎化をもたらすうえでヒットラーが内容の論議を拒否したのと同じ効果をあげた。
ここでもまた、マルクスなりレーニンなりに、あるいは社会主義なり共産主義なりに忠誠を捧げ続けることはもはや無意味となり、忠誠の対象はもっぱら、絶えず運動を続け将来の予測を決して許さない運動そのものだけとなる。SSのためにヒムラーが創ったまことに適切な合言葉、「忠誠こそわが名誉」は、ナツィズムとボルシェヴィズムの双方に特徴的な一つのメンタリティーを表現している。
つまり、人間の名誉は普通ならば忠誠の対象の中にその基盤を持つのに対し、ここでは忠誠自体が完全に抽象化され内容を失って、まさにそれ故にファナティシズム(* 熱狂的心酔)の極限にまでおちこみ、各個人を結びつけこの世に繋ぐ絆そのものと化しているのである。」







(つづく)

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