大道芸観覧レポート モノクロ・フィルムでつづるkemukemu

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バザーリア語録(1)

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イタリアの精神保健改革の中心人物、
フランコ・バザーリアの言葉

『プシコ・ナウティカ イタリア精神医療の人類学』
 (松嶋健 著 世界思想社 2014年7月発行)から

<参考>
映画「むかしMattoの町があった」
http://180matto.jp/

主人公
精神科医フランコ・バザーリア(1924-1980)の年表
http://blogs.yahoo.co.jp/kemukemu23611/folder/1497099.html



バザーリア語録(1)


「(法律180号は)暫定的な法律である。国民投票を回避するために作られたもので、それゆえ政治的な妥協を免れえない。だから、たやすく有頂天になるのは注意したほうがいい。伝統的な病院(一般病院のこと)に入れることで、精神病者のすべての問題を解決する特効薬を見つけたなどと信じるわけにはいかない。新しい法律は、精神医学を医学として、つまり身体に対する反応として認めようとしている。それはまるで、犬をバナナと認めたいと言うようなものである。」(インタビュー)



「 この方法(現象学的分析)の重要性は、まさに医師自身を直接ゲームの中に投げ入れるところにある。彼は、観察者として外にとどまることはできず、直接参与しなかればならない、症状そのものではなく病者が自らをあらわにするその様態を捉えようとしながら。
 確かにヤスパースも述べていた。症状の記述だけでは不十分であって、その記述は観察者自身のうちに、彼の経験とか生きられた何かを引き起こさなければならない。ただこのようにしてだけ、観察者は、この症状の記述を内側から強く生きることができるのである。」(1953)



「この運動(*「わたし」と「あなた」を区別することができないような運動)は、さらに、主体性と客体性との間の完全な水平性にまで至る。というのも、「わたし」は目の前にいる人の「あなた」と混ぜ合わされて、主体(病者)と世界(医師)は、もはや区別された二つの「モノ」ではなく、一方が他方を補いあうようになるからである。」(1953)




「<出会い>とは、ある直観的な関係性であり、そこにおいて医者と患者それぞれの単一性は溶解し、二つの単一実体の手前にただ一つの何かを形成するのである。」(1954)



「自分自身でいたいということ、つまり全体的で完結した人格であると感じるためには、常に他の自分自身に開かれることを必要とする。孤立した個人は、<出会い>の可能性を失う。しかしこの言葉は、型通りの関係性を何でも意味しているわけではない。単に他人とともに生きているだけで人が満足すると思ってはいけない。一見したところ多数の関係性を生きている個人が最も孤独であり、反対に一見、一人に見える個人がどんな瞬間にも、世界に対して自らを開き、自らを与える可能性を自身のうちに持っていることもある。つまり、ある人は無用で偶然的な多くの慣習的な関係性を生き、別の人はただ一つの関係においてもその真の意味を発見し、そこから人生の本質的な諸要素を取り出してくることができるのである。」(1954)




「心気症は単に症状なのではなく、生きられた感情であり体験なのであって、感情と密接に親和的な関係にある特異な意識状態なのである。それは、別の言葉で言えば、一つの状況であり、一つの出来事を表しているのであって、単に説明されるだけでもなく了解さるべきものであり、その視点からするなら、単純化された知識に還元されえないものなのである。

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心気症的離人症とは「身体的カタストロフィ」と象徴的に定義することができる。それは人間的なカタストロフィであって、自分の身体を通して「わたし」を統合するやりとりの断絶において、世界との「関係」の断絶があらわになっているのである。

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離人症者は、自分自身を、自らの身体を、自らのリアリティを「生きる」代わりに、人格を統合するこれらの諸要素を、外から、自分のではない「モノ」のように観察するのである。

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心身症離人症においては、身体はその中心的な位置を失い、離心的な(=エキセントリックな)位置を占めることになる。このため、身体が感じられること、身体が知覚されることが、人格に対する並外れた侵犯としてあらわになるのである。


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心気症的な「表象」「態度」「振る舞い」は病気を構成するのではなく、徴候を、いや正確には「状況」を構成するのである。そうした心気症的な状況において、人は世界との関係のなかで自らの身体を無防備に差し出しているのである。」
(1956)







(つづく)

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