大道芸観覧レポート モノクロ・フィルムでつづるkemukemu

大道芸、昔の広告、昔のテレビ番組、中井久夫、フーコー

ハンナ・アーレント語録2-(9)

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全体主義の起原3全体主義』(新装版・みすず書房




「大衆化した人間に特有の没我性は、この人々にあっては無名性への憧れ、純粋な一機能としての歯車になること、いわゆる<より大いなる全体>に没入することへの憧れとして現れていたーということはつまり、自分の偽りのアイデンティティーを自分が社会のなかで演ずべき役割や与えられた機能とともに消してしまうことに役立つような変化ならば、どんな変化でもいいというのである。
戦争は、そこでは個人間の一切の差異が消え失せる最も壮大な大衆行動として経験されたため、今や苦しみすらー伝統的には苦しみとは、各個人を他とは異なった交換のきかない運命が襲うことによって、人間を相互に区別するものであったのだがー「集団的苦しみ」として「歴史進歩の手段」とされてしまった。」




「広い世界への脱出もままならず社会の罠に逃れ難く捕えられているという感情ーこれは帝国主義的性格を形成した条件とは非常に違っているーは、無名性と自己放棄を求めたかつての傾向にさらにもう一つ、暴力に対する異常な、ときにはヒステリーじみた欲求を付け加えた。超人間的な破壊力の展開のなかに自らを投ずることは、いずれにせよ、社会において当てがわれた役目に縛りつけられた虚(うつ)ろな陳腐さの中に首まで漬けられていることからの解放になると思えたのである。
全体主義運動がこれらの人々を惹きつけたのは、よく言われる全体主義の「行動主義」の故であり、その点は現在も変らない。この「行動主義」とは、一切の考慮を「洗い流してしまった」純粋たる行動と、人間の理解を超えた純然たる必然性の圧倒的な力に対する信仰という、見かけだけは矛盾しているように思える二つのものの融合なのである。
それというのもこの二つの融合は、前線世代の最も本質的な戦争体験、すなわち、いかなる行動によっても防ぎ得ない死の運命の枠組の中で不断に破壊の活動を続けるという経験に、この上なく正確に合致していたからだった。この前線体験は、戦後世界のはるかに進んだ技術化と自動化の趨勢の中でたえず新たなる刺戟と養分を得ることができたため、驚くべく長寿を保つことになった。
そのため今日なおこの体験はフランス実存主義のかなりの部分を支配している。ここでもやはり人間は一方で絶対的な力ーこの場合は歴史のテロル的、暴力的な力ーの手に完全に委ねられ、それでいて他方では行動にのみ自らのアイデンティティーを見出している。」




全体主義運動の行動主義は、彼らが明確に語るテロル活動への偏愛に特にはっきり現れており、彼らはテロルをその他すべての政治的行為に優るものと見做している。
このテロリズムはそれ以前の革命団体や無政府主義団体のテロルとはほとんど共通点を持たない。テロル活動はもはや何らかの政策遂行の手段でも、政治的行為の最後の手段でもなく、抑圧の象徴となった特定の個人の排除を目的とするのでもない。知的エリットがモッブと同じく全体主義のテロルに惹き寄せられたのは、そこには言葉の真の意味におけるテロリズム、一種の哲学となったテロリズムがあったからである。
テロルは政治的行為の表現形式そのもとなり、自己を表現し既成のもの一切に対する自分たちの憎悪と盲目的な怨恨を表現するための手段となった。それは自己表現のために爆弾を投げるという一種の表現主義であって、その信奉者は自己表現のため、すなわち自分の存在を正常な社会の側に認識させるためならば、自分の生命を犠牲にすることも厭わなかった。・・・」



全体主義運動の魅力は単にスターリンヒットラーの嘘を吐く名人芸にあったのではなく、彼らが大衆を組織し自分たちの嘘を現実へと変え得たという事実にあった。ここでは「未来に向かって突き進む」運動に支えられ「歴史的」行動を鼓舞する思想の源泉として利用されたが故に、それは歴史自体によって認証を与えられているかに見えたのである。」








(つづく)

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