大道芸観覧レポート モノクロ・フィルムでつづるkemukemu

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バザーリア語録(4)

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イタリアの精神保健改革の中心人物、
フランコ・バザーリアの言葉

『プシコ・ナウティカ イタリア精神医療の人類学』
 (松嶋健 著 世界思想社 2014年7月発行)から

<参考>
映画「むかしMattoの町があった」
http://180matto.jp/

主人公
精神科医フランコ・バザーリア(1924-1980)の年表
http://blogs.yahoo.co.jp/kemukemu23611/folder/1497099.html




「私たちのリウニオーネ(*ミーティング。患者も含む場合もある)を、一種の集団精神療法と考えることはできません。つまり、その展開においても、解釈においても、精神力動的な基礎があるわけではありません。特殊なタイプの精神療法への明確な参照があるというより、むしろ集団のダイナミズムの一般的な意味合いのなかに組み入れられるべきでしょう。
 別の言い方をするなら、一日のうちに行われる複数のリウニオーネは、本質的に二つの意味を持っているのです。第一にそれが病者に、病院のなかで、多様な選択肢を提供するということ(リウニオーネに参加する、働きに行く、何もしない、病棟にいる、別の活動に従事する)。第二に、それは比較対照し、相互的にヴェリフィカ(*評価する)する場を創出するということ。ある患者がリウニオーネに参加するということは、自発性のレベルがかなり高いことを意味しています。なぜなら、他人との比較対照を受け入れるということだからです。
それに対して、集団精神療法は通常、参加の義務を課します。
集団は、医学的な知によって刺激を受け活発になります。ここでは共同体の生活、日常生活が、医学的な知によって統制されるのではなく、いかなる資格であれ、病院の一日に皆が参加する自発的な活動の結果であるように行われる傾向があるのです。」(1968、インタビュー)




「(先行のイギリスやフランスの試み<*「治療共同体」>に対して)しかしわれわれの経験に関して言えば、自分たちがそこで行為していた現実に合った介入が緊急に必要だと感じられていた。すでにコード化され、いかなる状況にも適用可能なモデルの適用に甘んじることはできまかった。このために、治療共同体のアングロサクソン・モデルという選択は、精神病院の現実を否定する行動の最初の一歩を正当化しうるような、一般的な参照点として選択されることが望まれたのである。
(中略)

アングロサクソン・モデルへの参照が有効であったのは、行動の領野が変容し、施設の現実がその表情を変えるところまでであった。
 続く歩みにおいては、われわれの施設にとっての治療共同体の定義は、両義的なものであることが明らかになった。というのも、解決のモデルの提案として解されうるために、それが受け入れられるシステムに組み入れられた暁には、その異議申し立ての機能が失われてしまうからである。いずれにせよ、こうした施設の転覆の進展の様々な段階を一歩一歩たどるなら、システムに導入された行動の道筋が不断に壊れることの必然性はより明らかであると思われる。
(中略)

そういうわけで、われわれの治療共同体は、つくられたものとしてではなく所与として提示された状況を拒否するものとして生まれたのである。」(1968)




精神疾患は存在している。けれどもそれが何なのかは誰も知らない。問題は精神病院の中にあると人は言うが、それはとりわけ外の問題なのだ。学校や仕事、家族が、人々のなかでより弱い者たちを周縁化する。ある者は刑務所に収容され、また別の者は精神病院に収容されるというわけである。」




「病気とともに被収容者の社会的役割を分析しなければならなくなる。だからこそ、自分自身の専門領域から出て、精神医療施設と精神医学が私たちの社会の文脈のなかでもっている関係と機能を問いに付すことが不可欠となるのである。
そしてもし、実践的な現実において、金持ちのための精神医療と貧者のための精神医療という二種類の精神医療が存在していることを明らかにすることができたなら、政治的・社会的な動機によっても編み上げられているものを、技術的・科学的な用語によってだけ定義することはきわめて難しくなるだろう。

(中略)

一旦、自由なコミュニケーションー精神医療施設の内部で治療的次元を始動させるのに欠かせない基礎であるーが実現したなら、こうしたコミュニケーションを外部へと拡張する以外に、次の一歩はありえないだろう。(中略)
病院の開放と自由なコミュニケーションは、外の世界が関係性の一方の極として参与してのみはじめて意味をもつ。内部の自由なコミュニケーションというのは、もし外への開かれがなく、内と外との不断の対話が維持できなければ、意味のない方策にとどまるしかない。(中略)

今や外の世界は、精神病院を自身の一部と認める必要がある。(中略)
だが私たちの社会システムが排除された者の包摂に関心を示さないかぎり、精神病者の権利回復はー他のどんな領域のいかなる行為とも同様ー 一見暴力的ではない施設の内部のヒューマニスティックな行為に限定され、問題の中核は手つかずのまま放置されてしまうのだ。」(1969)







(つづく)

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