大道芸観覧レポート モノクロ・フィルムでつづるkemukemu

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ハンナ・アーレント語録2-(18)

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全体主義の起原3全体主義』(新装版・みすず書房




強制収容所というものが存在すること、罪のない人々が捕えられていること、人々が跡形なく消え失せることは(*秘密警察の)誰もが知っていた。しかしそれと同時に、この公然の秘密について語ること、いやそれどころが、そのことについて問合せること以上に危険なこと、厳禁されていることはないということも皆は知っていたのである。
 人間というものは物事を知り経験するためには、彼の知ったこと経験したことを理解し確認することのできる他の人々を必要とするのだから、各人が何らかの形で知っているが声に出して言うことはできない事柄は、一切の具体的現実性を失って、すべての領域とすべての人間活動をひとしなみに支配して人を悩ませる漠然たる不確かさ及び不安という形でしか存在し得ない。」




「 強制収容所および絶滅収容所は全体的支配機構にとって、人間は全体的に支配され得るものであるとする全体主義体制の基本的な主張が正しいかどうかが実験される実験室となる。
 ここで問題なのは、そもそも何が可能であるかを確かめること、そして結局すべて可能であるという証明をおこなうことである。これに反して、他のすべての、とりわけ医学に関する実験ーその残虐性は第三帝国の医師に対する裁判できわめて詳細に報告されているがーは副次的なものでしかない。尤も、これらの実験室もありとあらゆる種類の実験のために利用されていたことはやはり特徴的なことではあるが。
 全体的支配は無限の多数性と多様性を持ったすべての人間が集って一人の人間をなすかのように彼らを組織することを目指すのだが、すべての人間を常に同一の反応の塊りに変え、その結果これらの反応の塊りの一つ一つが他と交換可能なものとなるまでに持って行かないかぎり、この全体的支配というものは成立し得ない。
 ここで問題なのは、現に存在しないもの、つまりその唯一の<自由>といえば「自己の種を維持する」ことにしかないような種類の人間といったものを作り出すことなのだ。全体的支配は精鋭組織に対するイデオロギー教育と同時に収容所における絶対的テロルによってこの結果に到達しようとする。その場合残虐行為の実行に遠慮会釈もなく充てられるのは精鋭組織であるが、この残虐行為は謂わばイデオロギー教育の実践的な延長、また彼らが自分の力を実証する試金石であり、一方また収容所そのもののなかで演じられる前代未聞の劇はイデオロギーの正しいことの<理論的>立証に役立つものとされるのである。
 収容所は単におお殺と個人を辱しめることのためにあるのではなく、科学的に厳密な条件のもとで人間の行動方式としての自発性というものを除去し、人間を同じ条件のもとでは常に同じ行動をするもの、つまり動物ですらないものに変える恐るべき実験のためにもある。動物ですらないというのは、周知のように腹が減ったときではなく鈴が鳴ったときに餌を食うように仕込まれたパブロフの犬は普通の動物ではなく、本性をねじまげられた動物だったからだ。
 正常の状態ではこんなことは絶対に不可能である。なぜなら、自発性というものに単に人間の自由のみか、赤裸の生存というだけの意味での生活というものが結びついているかぎり、自発性は決して完全に排除できるものではないからだ。
 強制収容所のなかでのみこのような実験は可能なのであり、それ故に収容所は単にーこれまでに実現された最も全体主義的な社会ーであるだけでなく、さらにそれを越えて、全体的支配一般にとっての指針となるべき社会理想なのである。
 全体主義体制の安定が運動の擬制的世界の外界からの隔絶に依存するように、強制収容所における全体的支配の実験は、全体主義的に統治されている国の内部においてすら収容所が確実に他のすべての社会、生きている人間の世界から遮断されていることに依存する。
 収容所からのすべての報告に固有の、しかも全体的支配形式を現実に理解するについての主要な困難の一つとなっているあの独特の非現実性・途方もなさは、この遮断と結びついているのである。しかもこうした支配形式はこれらの強制収容所絶滅収容所と存亡を共にするのだ。到底信じられぬかもしれないが、これらの収容所は全体的権力機構・組織機構の中核的機関なのだから。」







(つづく)

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