大道芸観覧レポート モノクロ・フィルムでつづるkemukemu

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ハンナ・アーレント語録2-(19)

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全体主義の起原3全体主義』(新装版・みすず書房




「 強制収容所および絶滅収容所の本当の恐ろしさは、被収容者がたとい偶然に生き残っているとしても、死んだ人間以上に生者の世界から切離されているーなぜならテロルによって忘却が強いられているからーということにある。
 ここでは殺害はまったく無差別におこなわれる。まるで蚊をたたきつぶすようなものだ。誰かが死ぬのは、組織的な拷問もしくは飢えに堪え得なかったからかもしれないし、あるいは収容所が一杯になりすぎていて、超過した労働力はかたづけられねばならなかったからかもしれないし、また逆に、新たに供給される労働力が不足する場合には収容所の人口が減る危険が生じ、今度はあらゆる手段をもって死亡率を減らせという命令が出されることもある。」




「 これまでどこでも強制収容所は労働能率を考えられて設けられたためしがない。その唯一の経済的機能は過去も現在も、収容所そのものの監視機関に資金を供給することだった。つまり、経済的に言えば強制収容所はそれ自身のために存在するということなのである。
 労働ということが問題であるならば、他のどこででも異なった条件のもとでは比較にならないほど効果的に、かつ安価に労働はおこなわれ得たはずだ。ロシアでは強制収容所は大抵強制労働キャンプとして記述されているーソヴェート官僚は強制収容所にこのような名称を与えて美化したのだーが、それが強制労働ではないことはまさにそのロシアでも最も明瞭に示されている。強制労働とは、移動の自由を奪われ、さなきだにいついかなるときにどんな場所へでも動員することのできるロシアのプロレタリアート全体の、通常の生活条件なのだから。
 信じがたい残酷さは収容所の労働の経済的な無目的性と最も密接に結びついている。ナツィは戦争中、あきらかな車輛不足にもかかわらず数百万のユダヤ人を移送し、金のかかる巨大な絶滅収容所を設置したとき、この無目的性を公然たる反目的性にまで推し進めた。こうした施設は戦争の遂行の必要とはあきらかに矛盾するが、この矛盾によってナツィは目的に支配された世界のただなかでのこの事業全体に気違いじみた非現実性を賦与したのである。
 しかし外見的な無意味さから来るこの非現実性は事実上、あらゆる形態の強制収容所の根底にあるのである。外部から見れば収容所と収容所のなかでおこなわれていることとは、死後の生、つまりあらゆる現世的な目的を奪われた生という観念世界から借りて来たイメージで描かねばならぬもののように思える。
 強制収容所は、死後の生についてのヨーロッパの三つの最も重要な観念、すなわち冥府、煉獄、および地獄における生の観念に対応する三つの型に分けることができよう。その対応はびっくりするほど正確である。
 ハデス(冥府)に相当するのは、ほったらかして見殺しにしてしまうというやんわりしたやりかたで、これの適用は非全体主義国家においてすらあらゆる種類の好ましからぬ分子ー亡命者、無国籍者、非社会的分子、失業者ーに対しては流行になりそうな気配だった。これはDPキャンプ(難民収容所)-その意味するところはやはり無用な厄介な存在になった人々の収容所ということだがーとして最後まで残った。
 煉獄は、無視と乱脈な強制労働が一緒になっているあのソ連のいわゆる労働キャンプなるものにあらわれている。
 最後にまさに文字どおりの意味での地獄を形造っているのは、もっぱらナツィによってのみ完璧の域にまで仕立て上げられた型の収容所であって、そこでは生活全体が最大限の苦しみを与えるという目的に従って一分の隙なく組み立てられている。
 この三つの型に共通するのは、そこに迷いこんだ人間たちはもはや存在していないかのように、彼の身に起ることはもはやだれにとっても問題にならないかのように取扱われるということである。-まるで彼らはもう死んでしまっていて、彼らが成仏するまでのあいだどこかの気の狂った悪魔がほんのしばらく彼らを生と死の中間にとどめて面白がっているかのように。
 あのように途方もない残虐行為を煽り立て、遂には絶滅ということがまったく正常な措置であるかのように見せるのは、鉄条網でもなければ、その鉄条網に囲い込まれた人々の人為的な、たくみに演出された非現実性でもない。収容所のなかでおこなわれていることはすべて、私たちが倒錯的な悪の空想世界で知っているものなのである。
 われわれにきわめて理解しがたいのは、そのような空想に劣らず、その恐るべき現実化が収容所という一つの幻影の世界、つまり物事の結果というものがなく従って責任というものが存在しない世界で生じているということだ。そのため結局、局外者は勿論のこと、苦しめる者も苦しめられる者も、これが残酷な遊戯もしくは馬鹿げた夢以上のものであるということを理解しかねているのである。・・・・」







(つづく)

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