大道芸観覧レポート モノクロ・フィルムでつづるkemukemu

大道芸、昔の広告、昔のテレビ番組、中井久夫、フーコー

ハンナ・アーレント語録2-(20)

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全体主義の起原3全体主義』(新装版・みすず書房




「全体的支配への決定的な第一歩は人間の法的人格を殺すことだった。無国籍者の場合この殺害は、彼がすべての現行法の保護を受け入れられなくなることで自動的に完了する。全体的支配のもとではこの自動的殺人は計画的殺害となる。
 計画的殺害はこうして始まるのだが、その際強制収容所は常に正規の刑執行とは別の枠に入れられ、被収容者は「刑法に触れる、もしくはその他何らかの意味で非難すべき所業の報いによって」収容所に送られることはあり得ない。いついかなる場合にも全体的支配は、ユダヤ人、保菌者、死滅する階級の代表者でありはするが、善き行為にせよ悪しき行為にせよ一切の行為の能力をすでに失ってしまった人々を、収容所に集めるように心がける。宣伝の文句で言えばこれは「警察的予防措置」としての「保護拘禁」を執行することだが、この予防措置とはつまり人間から行動を奪う措置にほかならない。・・」





「 犯罪者は本来強制収容所に入れられるべきものではない。にもかかわらず彼らがすべての収容所で恒常的なカテゴリーを形造っていたことは、全体的支配機構の観点からするならば、社会の先入見に対する一種の譲歩なのであってそのようにすれば社会は収容所の存在に最もよく慣れることができるのである。それにまた、他のすべてのカテゴリーの人間どもと彼らを雑居させることには、新しく入って来た連中すべてに自分らは社会の最下層に落ちこんだのだということをその場ですぐ痛切に感じさせるという利点があった。」




「 ドイツでもロシアでも政治囚と犯罪者を雑居させることから強制収容所の存在ははじまったわけだが、その上にさらに非常にはやくから第三の要素が加わった。この要素は間もなくすべて被収容者のなかでマジョリティを占めることになる。この最大の集団をなしていたのは、彼ら自身の意識においてもまた当局者の意識においても、その逮捕と何らかの合理的な関係のあるようなことを実行したことなど一度もない人々だった。この人々がいなかったとすれば強制収容所などは決して存在し得なかったろうし、特に体制初期の数年以後にまで存続することはできなかったろう。
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このようなまったく<罪なき>被収容者のほうが圧倒的に多い、本来の意味で全体主義的に運営される強制収容所への方向転換は、ドイツでは1938年に入ってはじめておこなわれたに反して、ロシアでは1920年代の終りからはじまっている。それでも1930年までは、ロシアの強制収容所の人口の大多数はまだ犯罪者や反革命主義者や「政治囚」から成っていたのである。
 それ以後収容所のおける罪なき人々の数は非常に増え、彼らをカテゴリーに分けるとー外国と何らかの連絡をもの、ポーランド系ロシア人(1936年から38年まではこれが特に多かった)、計画経済上のならかの理由で取り潰された村の農民、移住させられる少数民族、占領のためにあまりにも長期間外国に駐在していた連帯にたまたま所属していたか、もしくはドイツの捕虜になっていた赤軍復員兵、その他という具合にーが困難なほどである。
 あらゆる意味でまったく罪のないこのような人々は単に収容所人口の大多数をなしていただけではない。最後にドイツのガス室のなかで<淘汰>されたのも彼らだったのだ。法的人格の抹殺ということが最も完全におこなわれたのはこれらの人々の場合だけだった。だから彼らは、人が彼らを認知する手がかりとなる名前や行為をまったく無視されて、死の大量生産工場で<加工>され得たのであるし、またこの工場はその処理能力からしても、個々の人間のことをもはや顧慮することはできなかったのである。実際にナツィ体制に対して何らかの<罪>を犯したものなどは全然収容所に入れられはしなかった。その場で射殺されるか殴り殺されてしまったからである。
 ガス室は最初から威嚇もしくは処罰の処置として考えられたものではなかった。それはユダヤ人もしくはジプシーもしくはポーランド人<一般>のために建てられたものであり、究極的には人間というものがそもそも余計なものであることを証明するためのものだった。
 強制収容所の内部では、絶滅を予定されたこれらのカテゴリーはいわば、そもそも人間というものが何であり、人間というものにどんな価値があるかをその時点その時点で示す見本だった。そしてこの見本と引較べることによって他のすべての人間は、この大量虐殺が終らなかったとすればしまいには自分もこの人間の部類に組み込まれ虐殺されるに至るかどうかを判断することができたのである。・・・」







(つづく)