大道芸観覧レポート モノクロ・フィルムでつづるkemukemu

大道芸、昔の広告、昔のテレビ番組、中井久夫、フーコー

ハンナ・アーレント語録2-(21)

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全体主義の起原3全体主義』(新装版・みすず書房




「・・・ローマ人はキリスト教徒が殉教者伝を書くことを許したし、教会は異端者を人間の記憶のなかにとどめた。だからこそすべては保たれ、跡形なく消え去るということはあり得なかったのだ。人間は常に自分の信条のために死ぬことができた。
 強制収容所は死そのものをすら無名なものとすることでーソ連では或る人間がすでに死んでいるかまだ生きているかをつきとめることすらほとんど不可能なのだー、死というものがいかなる場合にも持つことのできた意味を奪った。
 それはいわば、各人の手から彼自身の死をもぎ取ることで、彼がもはや何ものも所有せず何びとにも属さないということを証明しようとしたのだ。彼の死は彼という人間がいまだかって存在しなかったということの確認にすぎなかった。
 人間の道徳的人格というものが社会および他の人間との共同生活に根差しているかぎり、道徳的人格のこの毀損に抗してなおかつ次のような態度を取ることができただろう。すなわち、自己の良心と、死の手先として生きるより犠牲者として死ぬほうがとにかくましだという主観的な心の慰めとに頼ることである。道徳的人格のこの個人主義的な逃道を、全体主義政府は良心の下す決断そのものをまったく不確かな曖昧なものとすることによって封じてしまった。」





「良心などというものではもはや間に合わず、いかなる場合にも善がなされることがもはやあり得ないような生活条件が作り出されたことで、全体主義体制の犯罪へのすべての人間の意識的かつ組織的な連累は犠牲者すらをも含むようになり、こうして真に<全体的>なものとなる。<強制収容所人>-犯罪者、政治囚、ゲットーと絶滅収容所ユダヤ人たちーが、収容所運営を大幅にゆだねられ、そうして自分らの友人を死に送るか乃至はたまたま自分の知らない別の人間の虐殺に手をかすかという解決不能の葛藤を味わわされることによって、どれほどまでにSS(*ナチ親衛隊)の真の犯罪にまきこまれていたかということを私たちはさまざまな記述から知ることができる。
 この場合、最も重要なことは、真に罪ある者に憎悪が向けられなかった(当然ながらKAPO〔被収容者中の労働監督〕はSSよりも憎まれていた)ということでは決してなく、刑吏と犠牲者、有罪と無罪との区別が無にされることなのである。
 著者註:ブルーノ・ベッテルハイムは、警備員も囚人もひとしく収容所の生活に<条件づけ>られ、外の生活にもどることを恐れるようになる過程を描いている。それ故ルッセが、「犠牲者も刑吏もひとしく卑劣だったというのが真相である。収容所の教訓といえば。卑劣さの友愛ということだ」と言っているのは正しい。
 道徳的人格の殺害の後、人間が生きた屍になることを阻止すべく残っている唯一のものは、個人的特異性という事実、人間本来のアイデンティティーという事実である。これは、場合によっては首尾一貫したストイシズムを固守することで不毛な形で守られるかもしれなかったし、事実また、全体的支配の要求のもとで多くの人々が権利も良心も持たぬ裸のパーソナリティを絶対的な孤立のうちに守ったこと、また現在も日々守っていることは疑いない。さらに、人間の人格のこの部分は、まさに自然と人間の意志では動かせぬさまざまの力とに依存するものであるが故に最も破壊しがたいものである。・・・」






(つづく)