大道芸観覧レポート モノクロ・フィルムでつづるkemukemu

大道芸、昔の広告、昔のテレビ番組、中井久夫、フーコー

ハンナ・アーレント語録2-了

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全体主義の起原3全体主義』(新装版・みすず書房




「収容所のなかに作られる死の社会こそ、人間を全体的に支配することを可能とする唯一の形式であることがあきらかになる。その後全体的支配を要求する人間がしなければならぬことは、個人の単なる存在のなかにもかならずあらわれて来る自発性をことごとく取除き、それが非政治的な、もしくは無害なあらわれ方をしようとしまいとにまったく関係なく、人間の最も私的な生活表現のあらゆる形式のなかにこの自発性を嗅ぎ出すことである。
 パブロフの犬は最も基本的な反応に還元された人間動物の見本であって、いつでも殺して、同じ行動をする他の反応の束と取替えることができる。このパブロフの犬こそ全体主義国家の<市民>のモデルなのだが、収容所の外ではこのモデルは常に不完全な形でしか作り出せないのだ。
 収容所は合目的ではないと言われ、また当局者がその反合目的性をことさらに認めることもあるが、そうした非合目的性や反合目的性は外見にすぎない。実は収容所は他のすべての制度よりも効果的に体制側の権力維持に役立つのである。収容所がなく、収容所に対する漠然とした恐怖がなく、全体的支配のための非常に明確な訓練(収容所以外のいかなる場所でも全体的支配をその最も徹底した形で実験することはできなかった)がなければ、全体的支配はその中核部隊に狂信を植えつけることも一民族全体を完全なアパシーのうちにとどめておくこともできない。・・・」




「 現在までのところ、すべては可能であるという全体主義の信念は、すべてのものは破壊され得るということだけしか証明して来なかったように見える。けれども、すべてが可能であることを証明しようとするその努力のなかで全体主義体制は、人間が罰することも赦すこともできない犯罪が存在するという事実をそれとは知らずにあばき出した。
 不可能なことが可能にされたとき、それは罰することも赦すこともできない絶対の悪となった。この悪は、利己主義や貪欲や利欲や怨恨や権力欲や法惰のような悪い動機をもってしてはもはや理解することも説明することもできまい。それ故また怒りをもってこれに報復することも、愛によってこれを忍ぶことも、友情によってこれを赦すこともできまい。死の工場に、あるいは永遠に開かぬ地下牢に投げこまれた犠牲者たちが、刑吏たちの目にはもはや<人間的>と見えなかったのとまったく同様に、この最も新しい種類の犯罪者は人類が共通に担う罪業というものの枠をすら超えている。」




全体主義の解釈によれば、すべての法は運動の法則になっている。ナツィが自然の法則を、あるいはボルシェヴィキーが歴史の法則を語るときには、自然も歴史も人間の行動にとっての安定的な権威の源泉ではもはやない。それらは運動そのものなのだ。
 自然法則の人間における表現としての人種法則についてのナツィの信念の基底には、現生の人間という種ではかならずしも停止しない自然の発展の産物としての人間というダ-ウィンの観念がひそんでいるが、それとまったく同じく歴史法則の表現としての階級闘争についてのボルシェヴィキーの信念の基底には、それ自身の運動法則に従って消滅する歴史的時代の終末ーそこでは歴史の動きそのものが消滅するーにむかって突っ走る巨大な歴史の動きの所産としての社会というマルクスの観念があるのだ。

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 歴史の動きと自然の動きは結局のところ同一であることがあきらかになる。ダ-ウィンが進化の観念を自然のなかに導入したこと、すくなくとも生物学の領域においては自然の運動は循環的ではなく直進的であり、無限の前進をおこなうという彼の断言は、自然がいわば歴史のなかにのみこまれ、自然の生命は歴史的なものであるとみなされていることを事実上意味する。
 適者生存の<自然>法則は、マルクスの最も進歩した階級が生き残るという法則とまったく同じ程度に歴史的法則であり、そういうものとして人種主義によって利用された。他方では、マルクスの言う歴史の駆動力としての階級闘争は生産力の発展のあらわれにすぎず、そしてその生産力もまた人間の<労働力>に源を持つ。

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 イデオロギーの命ずるところに従うようになった全体主義の政治は、この過程にはいかなる終結をも存在し得ないということをはっきりと教えた点で、このような運動の真の本性をあばき出した。生きるに値しない有害なものをすべて除去するのが自然の法則だとすれば、それは新しい種類の有害で生きるに適しないものが見つからないときには自然そのものの終末を意味するだろう。
 階級闘争において或る階級が<凋落する>ことが歴史の法則だとすれば、新しい階級が形成され、次いでその階級がまた全体主義的支配者の手にかかって<凋落する>ということがない場合には、それは人間の歴史そのものの終末を意味するだろう。換言すれば、それによって全体主義運動が権力を奪取し行使する殺しの法則は、たとい全体主義が人類全体をその支配の下に置くことに成功した暁にも依然として運動法則でありつづけるだろう。」







(了)