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ナチ時代の精神医学(2)

ナチ時代の精神医学ー回想と責任

ドイツ精神医学精神療法神経学会(DGPPN)の
2010年11月26日 ベルリンにおける追悼式典での談話
DGPPN会長 フランク・シュナイダー
訳:岩井一正
(日本精神神経学雑誌2011 第113号第8号より) *一部略



「 思いおこせば、1933年から1945年の間に大学や研究施設で働いていた精神科医の約30%が、当時のドイツ帝国から亡命しました。亡命はみずから望んでのものではありません。ユダヤ系の同僚、あるいは政治的な信条ゆえに扱いにくくなった医師たちは、その地位や役割から排除されました。彼らとその家族は職を失い、生活基盤を、収入と財産をなくしました。故郷を失うこともありふれた事態だったのです。このような亡命した同僚たちは、その家族もろとも、異邦人として見知らぬ国で出直さねばならなかったのでした。
 ドイツないしオーストリアを離れることができなかった者はたいてい、戦争中は強制収容所ないし絶滅収容所に連れて行かれました。ほとんど生き残れない運命でした。このことは、もはやとりかえしがつきません。

 これらすべてが起こったのは、ドイツ帝国における精神医学研究が優生学と民族衛生学のテーマにだんだん集中した時でした。ナチの世界観の保健、社会、経済政策は、国民の健康と作業能力に貢献できる人間を振興することを目的にしていました。弱い者は排除して、強い者がますます強くなるよう目論まれました。
 この考え方には宿命的な伝統があります。19世紀末から、優生学の概念が口にされ、精神障害者の断種が喧伝されました。ドイツ帝国ばかりでなく、スカンジナビアや、英米圏の国々でもみられました。1914年の夏には早くも「不妊と堕胎の法制化計画」がドイツ帝国議会に持ち込まれましたが、第1次大戦がはじまってさらなる審議と議案通過は阻害されたのでした。

 1933年6月14日、国家社会主義ドイツ労働者党(NSDAP)自身がそう呼ぶところの、ヒットラーの「政権掌握」からいくらも経たぬうちに、「遺伝病子孫予防法」が議会を通過しました。この法律の公式の注釈に、精神科医であり、1935年から1945年の間、精神医学学会の会長であったエルンスト・リューディンが関与したのでした。彼は当時、ドイツ精神医学研究所の所長でした。この法律のなかで、断種、および強制断種は、「次の世代のための事前配慮」と謳われています。倒錯した表現です。というのも、この表現は、ある人間を苦しめ傷つけることで、別の人間の幸福をあがなわせているからです。

 この法律のなかで、躁うつ病統合失調症は、その種の遺伝性の精神疾患と名付けられました。しかし同じく、てんかんの遺伝型や盲、聾、小人症など多数の疾患もそうなりました。病気の人間は子どもを持つべきではないとされました。劣悪と認定された彼らの遺伝物質は、健常な「国体」をこれ以上汚すべきではないと考えられたのです。

 医者はだれしも、言うところの「遺伝病者」を役所にとどけることを義務づけられていました。360,000以上の人間がこの法律に基づいて医師から選別されて、断種されました。手術の侵襲で死んだ人は6,000人以上でした。」






(つづく)


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