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ナチ時代の精神医学 (3)

ナチ時代の精神医学ー回想と責任

ドイツ精神医学精神療法神経学会(DGPPN)の
2010年11月26日 ベルリンにおける追悼式典での談話
DGPPN会長 フランク・シュナイダー
訳:岩井一正
(日本精神神経学雑誌2011 第113号第8号より) *一部略



「 優生学と民族衛生学的思考を背景においてみれば、断種法は、多くの精神科医には模範的と見なされました。エルンスト・リューディンは、われわれの前進組織の会長として、GDPNの年次大会の開催に際して、何度もこれを支持しました。そして世界中の別の国々でも、断種は優生学的な根拠で賛同されていました。もっともドイツでは、該当者の意志に反する断種すらも許されていました。犠牲者にとっては、これは自らのアイデンティティの中核への強烈でひどい侵襲であり、これに対して抵抗のすべもありませんでした。これによって彼らは回復不能な形で身体的無傷という権利を奪われたばかりでなく、親になる権利も剥奪されました。

 戦争が終わった後も、犠牲者とその家族は、自分たちの身になされたことについて、恥と沈黙しか残りませんでした。さらに今日までドイツ連邦共和国から国家社会主義の迫害の犠牲者として、はっきり認定されたことはありませんでした。断種法は、以下に述べる当時の法律の注釈からわかるように、国家社会主義的なドイツの人種イデオロギーのはっきりした表現であったにも拘わらず、認定されなかったのです。
 すなわち、その注釈には「ドイツ国民の様態に応じた遺伝種族保護の目的は、遺伝的に健常な、ドイツ国民にとって人種的に価値のある、子どもの多い家族を、どの時代にも十分な数だけ作ることである。」と書かれていました。

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(中略)


 しかし強制断種だけではありません。殺人もあったのです。すでに1920年代に、第1次大戦と世界恐慌の影響下に、患者はお荷物になりました。精神科医ルフレート・エーリッヒ・ホッヘは、1920年に出版された「価値なき生命」の抹殺の容認にむけての本の中で、法律家カール・ビンディンクと協同して、「厄介もの」の概念をうちだし、「精神的死の状態」と彼は呼んでいますが、言うところの治癒不能精神疾患のカタログを作りました。1930年にはそれを踏まえて国家社会主義の月刊誌に「生きるに値せぬ生命の死」を要求しました。
 ドイツのポーランドへの侵攻、すなわち1939年9月1日の大戦開始日にさかのぼって、ヒットラーはいわゆる「安楽死」行動を命じました。後に「T4行動」よばれるこの活動の医学的リーダーには、精神科医、神経医であり、ヴュルツブルク大学の正教授、ヴェルナー・ハイデが選定されました。この活動と公式の終了に続いたさらなる患者殺人の時期に、終戦までー正確にはその数週あとまでにー少なくとも25万から30万の心理的、精神的、肉体的な病者が犠牲になったといいます。」






(つづく)

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