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ナチ時代の精神医学 (4)

ナチ時代の精神医学ー回想と責任

ドイツ精神医学精神療法神経学会(DGPPN)の
2010年11月26日 ベルリンにおける追悼式典での談話
DGPPN会長 フランク・シュナイダー
訳:岩井一正
(日本精神神経学雑誌2011 第113号第8号より) *一部略




「 1939年10月以降、最初はポツダム広場のコロンブスハウスから、そして続いて1940年4月にはティアーガルテン通り4番地(*T4)、すなわち今はベルリンフィルハーモニーのある場所から、ドイツ帝国および併合地域の治療、介護施設に、すべての患者を系統的に把握し、選別するためのアンケート用紙が送られました。選別は、本当のところは有用性、つまりは労働能力を基準としてなされたのです。

 当時のサービスセンターの場所には、今日ではいわゆる「安楽死」の犠牲者のための記念板が地面にひっそりと埋め込まれてあり、あとから付け加えられた犠牲者にささげる塑像があるだけです。いわゆる「安楽死」の犠牲者のための、中心的な、国家的な追悼の場所は、いまもまだ存在しません。この事実は、排除やおとしめが存命できた人々やその家族にとってはまだ続いていることの表現であるばかりでなく、我が国やドイツ精神医学の記憶のなかの盲点でもあります。国家的な「T4」の追悼施設・情報施設の設立への目下の運動を、われわれ専門学会は支援するつもりです。

 選ばれた50人の鑑定者が、各病院の精神科医から返送されたアンケートを評価し、選別し、生か死かを決定しました。このなかには当時の著名な精神科医も含まれていました。ヴェルナー・ヴィリンガー、フリートリッヒ・マウツ、フリートリッヒ・パンセもいました。彼ら3人は、戦後われわれのこの学会の会長になったのでした。

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(中略)


 灰色のバスは、殺戮の画像的なシンボルですが、このバスに患者たちは治療介護施設から乗せて行かれ、6つの精神科施設に送り込まれました。そこにはガス室がもうけられていたのです。治療施設が殺戮施設になりました。治療から殺戮へ。精神科医はこの運搬を見守り、彼らを信頼する患者の殺人を見守ったのでした。

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(中略)


 1940年1月から1941年8月まで、「T4」活動が公式に持続した2年足らずの間に、7万人以上の患者が殺されました。そして公に抗議をして「T4」活動の終結に貢献したのは精神科医ではなかったのです。抗議はおもに教会からでした。決定的だったのは、ミュンスター司教のガレン伯爵クレメンス・アウグスト枢機卿が1941年8月24日に垂れた抗議訓戒でした。この直後に「T4」活動は公式に停止しました。

 「T4」活動の推移のなかで殺人について得られた知識と経験は、のちに強制収容所で利用されましたが、その際はさらに多くの人々が、何百万人も犠牲となりました。

 「T4」活動と平行して、いわゆる「小児安楽死」の流れのなかで、30以上の精神科小児科病院で、身体、精神を病んだ子どもたちが殺されました。これまでは約5,000の児童と言われてきましたが、戦後の法廷で殺人者自身が述べたのを、さしあたり無批判にうけいれてきた数にすぎません。数の見積りが少なすぎたことが、ようやくわかってきました。

 しかし、これだけではありません。というのも、中枢で企画された「T4」活動が公式に終了したあとも、殺人は続いたのでした。そのような「安楽死」の辺縁期には精神科施設のなかで、患者はーおそらく何万人にも昇るー医薬品の過量投与によって殺され、計画的に餓死させられました。ベッドをあけるため、金を節約するためでした。患者は食事を与えられたとはいえ、死に至るわずかの量でした。

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(中略)


 これらすべてのことは今日では想像もできませんが、精神科医が自分の患者、すなわち治療や介護を願って自分の所に来た人間を殺害に委ね、また選別して、自ら殺害を医学的、科学的にーえせ科学的にー監督したのでした。小児、成人、老人の殺人です。」






(つづく)
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