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ナチ時代の精神医学(7)

ナチ時代の精神医学ー回想と責任

ドイツ精神医学精神療法神経学会(DGPPN)の
2010年11月26日 ベルリンにおける追悼式典での談話
DGPPN会長 フランク・シュナイダー
訳:岩井一正
(日本精神神経学雑誌2011 第113号第8号より) *一部略





「 精神医学に関しては、1960年代後半と1970年代にこれまでの事の推移をあらわした最初の発表が個々になされました。ハンス・ヨルク・ヴァイトブレヒト、ヴァルター・リター・フォン・バイヤー、そしてヘルムート・エールハルトです。しかし3人とも精神医学を犠牲者として描写しています。1972年のドイツ精神医学神経学会DGPNの130年の歴史の本では、次のようになっています。

 『当時の精神医学の代表者は、みかけは広範な権能がありながら、「安楽死」のような行為を擁護したり、賛同したり、促進したりしたことはなかった。この時代の個々の精神科医の誤った行動や犯罪を「ドイツ精神医学」に責を負わせようとする試みが幾度も繰り返されたが、これはそれゆえ客観的に根拠なきものとして、はねつけることができる。』

 筆者は1970年から1972年までのDGPNの会長、ヘルムート・エールハルトです。彼は自身がNSDAP(*国家社会主義ドイツ労働者党)の会員であり、強制断種に賛成する鑑定書を作成していたのでした。彼は、1961年の連邦議会の損害賠償法の公聴会においてもなお、遺伝健康法の「素材的中身」はナチの発明品でもなんでもなく、「その中核的内容においては、実際に当時の、そして今日の科学的確信にすら一致する」と強調しました。犠牲者に対するあらたな嘲笑であり、おとしめです。

 たしかに、患者殺戮に対する精神医学の専門学会の公式な賛同表明がなかったのは本当です。しかし正しくはまた、反対表明もなかったのです。発言もなく、弁解もなく、警告もありませんでした。
 そしてわずかの個人を除いて、ドイツの精神科医とわれわれの専門学会の会員の大多数は、その指導者層に至るまでが、研究、学問、実践において、選別、断種、殺戮の計画、実行、科学的な根拠づけに当時あきらかに関与しました。

 ナチ時代のドイツの精神医学の歴史の研究は1980年代の初頭から本格的にはじまりました。

・・・
(中略)

 1983年にはエルンスト・クレーのナチ国家における「安楽死」という目覚まし的な本が出版されました。当時わたしは信じられぬ思いでこれを読み、暗澹としました。これも私に衝撃を与えた本でした。

 1992年のケルンでーこの時学会はDGPPNと名を変えましたーウヴェ・ヘンリック・ペータース会長のもとに行われたいわゆる150周年記念大会の枠組みで、会員総会において決議文が採択されました。その中で学会は、精神病患者、ユダヤ人やその他の迫害された人々へのホロコーストを振り返って、嫌悪感と哀しみを表明しました。当時はまだ施設的および個人的な罪や精神科医および専門学会の巻き込まれについては論及されませんでした。とはいえ、それは明確で必要な発言でした。


・・・・
(中略)


 この2年足らずの間に、DGPPNの内部で、自分たちの歴史とどう取り組むべきかについての徹底的な討論過程がまきおこりました。これらの討論はちぐはぐにはならず、一致した結論に至りました。ちょうど1年前についにDGPPNの会則が補完されました。最初のパラグラフ(*文章の段落)にうたわれています。

 『DGPPNは心的患者の尊厳と権利に関する自らの特別な責任を自覚している。この責任は、自分たちの先代組織が国家社会主義の犯罪、集団的患者殺戮、強制断種に関与したことから、自身の中に生じたものである。』

 
 この討論過程のさらなる帰結として、本年初頭にDGPPNの理事会によって、国家社会主義の時代の先代学会の歴史の解明のための国際的委員会が設立されました。委員には4人の著名な医学および科学歴史家がつきました。


・・・・・
(中略)


 そこで明らかにされるべきは、1933年から1945年の間、いわゆる安楽死プログラム、心的患者の強制断種、ユダヤ精神科医と政治的に好ましくないとされた精神科医の追放、その他の犯罪にどの程度関与したかです。

・・・・・・・・・・・・・・(中略)     」






(つづく)
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