大道芸観覧レポート モノクロ・フィルムでつづるkemukemu

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中井久夫語録(戦争)3

中井久夫(1934年生)

戦争と平和 ある観察」(2005)

*『樹をみつめて』みすず書房(2006)
または『戦争と平和 ある観察』人文書院(2015)から





「 戦争が「過程」であるのに対して平和は無際限に続く有為転変の「状態」である。だから、非常にわかりにくく、目にみえにくく、心に訴える力が弱い。
 戦争が大幅にエントロピーの増大を許すのに対して、平和は絶えずエネルギーを費やして負のエントロピー(ネゲントロピー)を注入して秩序を立て直しつづけなければならない。一般にエントロピーの低い状態、たとえば生体の秩序性はそのようにして維持されるのである。エントロピーの増大は死に至る過程である。秩序を維持するほうが格段に難しいのは、部屋を散らかすのと片づけるのとの違いである。戦争では散らかす「過程」が優勢である。戦争は男性の中の散らかす「子ども性」が水を得た魚のようになる。
 ここで、エントロピーの低い状態を「秩序」と言ったが、硬直的な格子のような秩序ではない。それなら全体主義国家で、これはしなやかでゆらぎのある秩序(生命がその代表である)よりも実はエントロピー(無秩序性)が高いはずである。快適さをめざして整えられた部屋と強迫的に整理された部屋との違いといおうか、全体主義的な秩序は、硬直的であって、自己維持性が弱く、しばしばそれ自体が戦争準備状態である。さもなくば裏にほしいままの腐敗が生れている。
 負のエントロピーを生み出すためには高いエントロピー(無秩序性)をどこかに排出しなければならない。部屋の整理でいえば、片づけられたものの始末であり、現在の問題でいえば整然とした都市とその大量の廃棄物との関係である。かつて帝国主義の植民地、社会主義国の収容所列島、スラム、多くの差別などなどが、そのしわよせの場だったかもしれない。それでも足りなければ、戦争がかっこうの排泄場となる。マキャベリは「国家には時々排泄しなければならないものが溜まる」といった。しばしば国家は内部の葛藤や矛盾や対立の排泄のために戦争を行なってきた。
 これに対して平和維持の努力は何よりもまず、しなやかでゆらぎのある秩序を維持しつづける努力である。しかし、この‘’免震構造‘’の構築と維持のために刻々要する膨大なエネルギーは一般の目には映らない。平和が珠玉のごとくみえるのは戦時中および終戦後しばらくであり、平和が続くにつれて「すべて世はこともなし」「面白いことないなぁ」と当然視され「平和ボケ」と蔑視される。
 すなわち、平和が続くにつれて家庭も社会も世間も国家も、全体の様相は複雑化、不明瞭化し、見渡しが利かなくなる。平和の時代は戦争に比べて大事件に乏しい。人生に個人の生命を越えた(みせかけの)意義づけをせず、「生き甲斐」を与えない。これらが「退屈」感を生む。平和は「状態」であるから起承転結がないようにみえる。平和は、人に社会の中にに埋没した平凡な一生を送らせる。人を引きつけるナラティヴ(物語)にならない。「戦記」は多いが「平和物語」はない。
 世界に稀な長期の平和である江戸時代250年に「崇高な犠牲的行為」の出番は乏しく、1702年に赤穂浪士の起こした事件が繰り返し語り継がれていった。後は佐倉宗五郎八百屋お七か。現在でも小康状態の時は犯罪記事が一面を飾る。」







(つづく)