大道芸観覧レポート モノクロ・フィルムでつづるkemukemu

大道芸、昔の広告、昔のテレビ番組、中井久夫、フーコー

中井久夫語録(戦争)4

中井久夫(1934年生)

戦争と平和 ある観察」(2005)

*『樹をみつめて』みすず書房(2006)
または『戦争と平和 ある観察』人文書院(2015)から





「 平和運動においても語り継がれる大部分は実は「戦争体験」である。これは陰画としての平和である。体験者を越えて語り継ぐことのできる戦争体験もあるが、語り継げないものもある。戦争体験は繰り返し語られるうちに陳腐化を避けようとして一方では『忠臣蔵』の美学に近づき、一方ではダンテの『神曲・地獄篇』の酸鼻に近づく。戦争を知らない人が耳を傾けるためには単純化と極端化と物語化は避けがたい。そして真剣な平和希求は、すでに西ドイツの若者の冷戦下のスローガンのように、消極的な「Ohne mich」(自分抜きでやってくれ)にとって変わってゆきがちである。「反戦」はただちに平和の構築にはならない。
 さらに平和においては、戦争とは逆に、多くの問題が棚卸しされ、あげつらわれる。戦争においては隠蔽されるか大目に見られる多くの不正が明るみに出る。実情に反して、社会の堕落は戦時ではなく平和時のほうが意識される。社会の要求水準が高くなる。そこに人性としての疑いとやっかみが交じる。」




「 人間は現在の傾向がいつまでも続くような「外挿法思考」に慣れているので、未来は今よりも冴えないものにみえ、暗くさえ感じられ、社会全体が慢性の欲求不満状態に陥りやすい。社会の統一性は、平和な時代には見失われがちであり、空疎な言説のうちに消えがちである。経済循環の結果として、周期的に失業と不況とにおびえるようになる。被害感は強くなり、自分だけが疎外されているような感覚が生まれ、責任者を見つけようとする動きが煽られる。・・・・(中略)
浅薄な眼には若者に限らず戦争はカッコよく平和はダサイと見えるようになる。」



「 時とともに若い時にも戦争の過酷さを経験していない人が指導層を占めるようになる。長期的には指導層の戦争への心理的抵抗が低下する。その彼らは戦争を発動する権限だけは手にしているが、戦争とはどういうものか、そうして、どのようにして終結させるか、その得失は何であるかは考える能力も経験もなく、この欠落を自覚さえしなくなる。
 戦争に対する民衆の心理的バリヤーもまた低下する。国家社会の永続と安全に関係しない末梢的な摩擦に際しても容易に煽動されるようになる。たとえば国境線についての些細な対立がいかに重大な不正、侮辱、軽視とされ、「ばかにするな」「なめるな」の大合唱となってきたことか。歴史上その例に事欠かない。
 そして、ある日、人は戦争に直面する。
・・・・・・・・・・・・・・・・」






(つづく)