大道芸観覧レポート モノクロ・フィルムでつづるkemukemu

大道芸、昔の広告、昔のテレビ番組、中井久夫、フーコー

中井久夫語録(戦争)13

中井久夫(1934年生)

戦争と平和 ある観察」(2005)

*『樹をみつめて』みすず書房(2006)
または『戦争と平和 ある観察』人文書院(2015)から





「 戦争の堕落の現われは、まず、戦争が敵兵の死体数の増加(ボディ・カウント、キル・レート)を競うようになることである。これは戦争の本来の目的ではない。
 第二は、都市、工場、農地、農家、貯水池、森林の破壊である。ペロポネソス戦争においてスパルタ軍がアテネのオリーヴ園を伐採したことから、米空軍の枯葉剤によるベトナム森林破壊まで一続きである。しかし、いずれの場合も戦争終結を促進したかどうか、はなはだ疑問である。
 1945年という敗戦必至の状況においても、ドイツ、日本諸都市の無差別爆撃は、かつての中国都市の場合と同じく、国民の戦意をさほど挫いていない。
 第三の現われは、市民の殺戮、特に男子の殺戮によって兵士予備軍を減らし、女子、小児の殺戮によって、兵士の再生産を奪うことである。その変種として、自国兵が敵国女性を妊娠させる「民族浄化」がある。しかしこれらも恨みを深くするだけで勝利に近づけるものではない。逆に一般人の抵抗を呼び覚ます。

・・・
(中略)

・・・
 ドイツ軍がベルギー国の永世中立を侵犯した際のベルギー軍および市民兵の銃殺についてはすでに述べた。次は南京以後の日中戦争について述べる順序である。漢口攻略戦においては日本軍の軍紀は改善したともいわれるが、攻略不能重慶に遷都されて、首都攻略による勝利の論理の誤りが明白になる。日本海軍は、新式の九六式陸上攻撃機を以て、ゲルニカに次ぐ世界最初の反復無差別都市攻撃を行なうが、護衛戦闘機として零式陸上攻撃機が随伴する1940年まで、無装甲の九六式攻撃機の被害は甚大であった。
 近衛内閣は「蒋介石を相手にせず」と声明し、重慶を脱出してきた汪精衛を首班とする親日政府を作るが、傀儡政権として人気がない。それでも、中国人の士気は次第に低下の傾向を見せ、これを憂えた中国共産党は、1940年、百個連隊を動員して、犠牲を顧みず、山西省に出動して精鋭板垣兵団を撃破する。(百団大戦)日本軍不敗の伝説は敗れ、中国人の士気は立ち直り、特に共産党支配下の村落はゲリラ戦の根拠地となり、ここに人民の海に隠れる魚としての八路軍が浸透してゆき、日本軍は「点と線」を支配するだけになり、特に夜間は砦に籠もるようになる。
 日本軍は、中国共産党軍を攻撃するが、その過程で、人民と兵士の区別がつかなくなり、ボーア戦争の際の英軍と同じく、村落自体を焼き財産を奪い、村民を殺す三光作戦に転じざるをえなくなる。この作戦は短期的には成功するが、長期的には全中国人の抗日意識の向上を促してしまう。他方、「善良」な中国人を囲い込む清郷工作を行なうが、一時はかなり広大な範囲を手中に収めながら結局は成功に至らず、清郷にも適性中国人の浸透を許してしまう。
 次第に日本軍の重点は、英米の援助を断ち切るほうに向かう。太平洋戦争自体に聖域攻撃の意味があり、直接的な中国援助ルート遮断のためにも多大の犠牲を払う。
 この経過は、ベトナム戦争に酷似している点がある。百団大戦は「テト攻勢」、清郷工作は「戦略村」、三光作戦は、村落を焼き、キル・レート、ボディ・カウントを戦果とする作戦行動に対応する。いずれにしても、兵士と人民の区別がつかず、「やられる前にやれ」の論理が悪循環を生む。化学的枯葉作戦の実施は日本軍の細菌戦、毒ガス戦に相当する。北爆(北ベトナム爆撃)は太平洋戦争を導いたフランス領インドシナ占領である。どちらもまさに聖域攻撃である。」






(つづく)