大道芸観覧レポート モノクロ・フィルムでつづるkemukemu

大道芸、昔の広告、昔のテレビ番組、中井久夫、フーコー

「戦争とストレス」語録 3

その1『戦争における「人殺し」の心理学』から ~2
(デーヴ・グロスマン著)



「 言うまでもなく、マスケット銃(*砲身や銃身の先端側の銃砲口から砲弾や銃弾、装薬を装てんする方式の歩兵銃)やライフル銃(*兵士が個人用に使うための軍用銃)を撃つという行為は、生物の本性に深く根ざした欲求、つまり敵を威嚇したいという欲求を満足させる。と言うよりむしろ、なるべく危害を与えたくないという欲求を満たすのである。このことは、敵の頭上に向けて発砲する例が歴史上一貫して見られること、そしてそのような発砲があきれるほど無益であることを考えればわかる。
 兵士には一般に、ただ発砲するだけのために空に向かって無駄撃ちをするという傾向があるが、このことを初めて記録に残した人物にアンダン・デュピクがいる。1860年代、フランス軍将校を対象にアンケートを行って、戦闘のなんたるかについて徹底的に研究したのである。

(中略)

また、ある将校はこう述べている。
「自軍の兵士のなかには、危険にわれを忘れて狙いもつけずに空に向かって発砲する者もいた。恐怖を紛らすと同時に、発砲という行動に酔いたがっているように見えた」。 」



「先填(ご)め式マスケット銃は、射手の熟練度や銃の状態によって、1分間に1発から5発の弾丸を発射できた。この時代の平均的な射程距離なら、ゆうに50%を超す命中率期待できたのだから、殺傷数は1分あたり100人単位になるはずであり、わずかひとりかふたりというのはおかしい。これらの部隊の殺傷能力と殺傷実績とがそのまま結びつかないのは、兵士の側に原因がある。つまり、標的のときとちがって、生きて呼吸をしている敵に相対すると、兵士の圧倒的多数が威嚇段階に後退して、敵の頭上めがけて発砲してしまうのだ。」


「兵士の訓練法は、同種である人間を殺すことへの本能的な抵抗感を克服するために発達してきたのである。高度な訓練を受けた近代的な軍隊が、ろくに訓練もされていないゲリラ部隊と交戦するーこんな戦闘はさまざまな状況下で起きているが、そのような場合、訓練が不十分な兵士は本能的に威嚇行動をとる(たとえば空に向かって発砲するなど)傾向があり、高度に訓練された兵士の側にそれが非常に有利に働いている。」


「威嚇よりもさらに驚くべき行動をとる兵士がいる。これまたきわめて明白な事実なのだが、敵の頭上めがけて発砲するどころか、まったく発砲しない兵士がいるのである。この点で、かれらの行動は動物界の<降伏>という行動に非常によく似ている。つまり、敵の攻撃性と断固たる態度を前にして、逃避、闘争、威嚇のいずれもとらず、おとなしく<降伏>という選択肢をとるわけだ。」


「・・・S・L・A・マーシャル将軍は、第二次世界大戦の米軍兵士のうち発砲した者は15ないし20パーセントだったと結論した。・・・現代の戦場では軍は分散しているので、発砲率の低さはそのためかもしれない。攻撃の抑制と発動のメカニズムを左右する複雑な公式において、分散というのはたしかにひとつの要素ではある。
 しかし、数名の銃手が持ち場に着いているところへ敵が接近してくるという状況にあっても、実際に発砲するのはただひとりで、残りの者は伝令を務めたり、弾薬を補充したり、負傷者を手当てしたり、目標を観測するといった「必要不可欠な」任務を遂行しようとする傾向があるという。また、発砲している兵士の多くは、自分のまわりに非発砲者がおおぜいいることに気がついている、とマーシャルははっきり指摘している。だが、このような受け身の人間がいるからといって、発砲している兵士の士気がそがれることはなかったようだ。逆に、発砲しない者の存在が、さらに発砲をうながす効果を及ぼしているようなのである。

・・・・・

同種である人間を殺すのをためらう傾向は、戦争の歴史を通じてつねにはっきりと現れているのである。」






(つづく)