大道芸観覧レポート モノクロ・フィルムでつづるkemukemu

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「戦争とストレス」語録 4

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その1『戦争における「人殺し」の心理学』から ~3
(デーヴ・グロスマン著)



「 敵の頭上高く発砲する、進んで発砲する者の手助けをする(装填を引き受けるなど)。このふたつのほかに選択肢はもうひとつある。デュピクはこのことをよく理解していた。
「脱落して姿を消す者もいる。かれらを襲ったのが銃弾か、それとも前進することへの恐怖なのか、いったいだれにわかるだろう」。
軍事心理学の分野で当代一流の著述家である、リチャード・ゲイブリエルはこう述べている。
ワーテルローやセダン規模の戦いでは、単にその場に倒れて泥のなかにじっとしているだけで、発砲しなくてすみ、また上官の命令に逆らって攻撃を拒否する必要もなくなる。銃火におびえる兵士がこんなチャンスに気づかないはずがない」
実際、誘惑は大きかっただろうし、その誘惑に負けた者も多かったにちがいない。
 
(中略)

 ここから明らかなのは、ほとんどの兵士は敵を殺そうとしていなかったということだ。おおよそ敵の方向に発砲することさえしなかったわけである。マーシャルが結論したように、兵士の大半は戦闘中に発砲することに対して、身内に抵抗感を抱えていたように思える。ここで重要なのは、そんな抵抗感はマーシャルが発見するずっと以前から存在していたということ、そして銃に複数の弾丸が装填されていたのは、多くの場合この抵抗感のためだったということである。」



「・・・一斉射撃状況下では、デュピクの言う権威者と仲間とによる<相互監視>が、発砲をうながす強力な圧力を生み出したにちがいない。
 ここには、一斉射撃のあいだに隠れていられるような、<現代の戦場における孤立と分散>状況は存在しない。一挙一投足が、肩を並べて立つ戦友の目にさらされているのだ。それでもどうしても発砲できない、したくないとすれば、ごまかす手段はただひとつ、銃を装填し(弾薬包を破り、火薬を流し込み、弾薬を填め、雷管をつけ、打金を起こす)、肩にかまえ、だが実際には発砲しないことだ。近くの者が発砲したときに合わせて、銃の反跳のまねをするぐらいはしただろう。」




「 人を殺すことへの抵抗感が存在すること、それは少なくとも黒色火薬の時代から存在していたらしいこと、このことを示す資料は膨大に存在する。敵を殺すことをためらうあまり、多くの兵士は闘争という手段を採らず、威嚇、降伏、逃避の道を選ぶのだ。戦場では、このためらいが強烈な心理学的力として作用する。この力を当てはめ、また理解することによって、軍事史、戦争の本質、そして人間の本質を新しい視点からとらえなおすことができるだろう。」





(つづく)