大道芸観覧レポート モノクロ・フィルムでつづるkemukemu

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「戦争とストレス」語録 9

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その1『戦争における「人殺し」の心理学』から ~8
(デーヴ・グロスマン著)



「 戦闘で兵士がこうむる精神的損傷には、奥深くに隠された原因がある。むき出しの攻撃的対決にたいする抵抗感、それが死や負傷への恐怖とあいまって、戦場のトラウマとストレスの多くを引き起こしているのである。つまり、恐怖の支配は兵士のジレンマを引き起こす一因にすぎないということだ。恐怖、疲労、憎悪、嫌悪、そしてこれらの要因と殺人の必要性とを天秤にかけるというとうてい不可能な難行、これらがみな結託して襲いかかってきて、ついには罪悪感と嫌悪感の深い泥沼に兵士を追い込み、正気と狂気を分ける一線を踏み越えさせてしまうのだ。これらの要因のうちでは、恐怖はごくささいな役割しか果たしていないのかもしれない。」



「 では、水兵が精神に変調をきたさないのはどうしてなのだろうか。陸上の同類と同じく、現代の水兵は恐ろしい戦火に焼かれ、恐ろしい死にかたをする。あたり一面死と破壊だらけだ。それでもダウンしない。なぜだろうか。
 その答えはこうだ。-水兵のほとんどは直接手を下して人を殺さないからだ。また個別に直接的に水兵を殺そうとする者がいないからである。
 ダイアによれば、砲手や爆撃機の乗組員や海軍将兵には、殺人の抵抗が見られないという。これは「ひとつには、機関銃手が発砲を続けるのと同じ圧力のためであるが、なにより重要なのは、敵とのあいだに距離と機械が介在していることだ」。したがって「自分は人を殺していないと思い込む」ことができるのである。

 接近戦で直接人を殺すのでなく、現代の海軍が相手にするのは艦船や航空機である。もちろん船や飛行機には人が乗っているのだが、心理的機械的な距離によって現代の水兵は守られている。第一次・第二次大戦の軍艦は、肉眼では見えない敵艦に砲弾を浴びせることが多かった。対空砲でねらう航空機は、たいていの場合は空の一点でしかない。自分と同じ人間を殺していることも、自分を殺そうとしている敵がいることも頭ではわかっているが、心理的にはその事実を否定することができる。

 同様の現象は空中戦でも起きている。先にのべたように、第一次・第二次大戦ではまだ航空機の速度が比較的遅かったので、敵のパイロットを見ることができ、そのために大多数のパイロットは積極的に攻撃することができなかった。だが<砂漠の嵐>作戦(*湾岸戦争でのイラクへの攻撃)では、パイロットはレーダースコープに映るだけの敵と戦っていたから、そんな問題はまったくなかったのである。」




「 戦略爆撃機下の民間人、砲撃や爆撃を受ける捕虜、現代の海戦を戦う水兵と同じように、敵前線後方の斥候に出る兵士がふつう精神的ストレスを免れているのは、なによりもまず戦闘のストレスを引き起こす最大の要因がそこに存在しないからだ。かれらには面と向かって敵を攻撃する義務がない。たしかに危険きわまりない任務ではあるが、死と負傷への恐怖および危険は、戦場における精神的損傷の第一の原因ではないのである。」



「 パイロットや爆撃機の乗組員は、距離が介在しているおかげで、自分が何千という罪もない市民を殺していることをあるていど否定することができた。それと同じように、環境とそれに関わる距離が、民間人と捕虜の爆撃犠牲者,水兵、そして敵前線後方の斥候にとっては緩衝材となり、自分を殺そうとする敵の存在を否認することができたのだ。要するに、わがこととして引き受けていなかったのである。

(中略)

 戦闘経験者と戦略爆撃機の犠牲者は、どちらも同じように疲労し、おぞましい体験をさせられている。兵士が経験し、爆撃の犠牲者が経験していないストレス要因は、(1)殺人を期待されているという両刃の剣の存在(殺すべきか、殺さざるべきかという妥協点のない二者択一を迫られる)と、(2)自分を殺そうとしている者の顔を見る(いわば憎悪の風を浴びる)というストレスなのである。」





(つづく)