大道芸観覧レポート モノクロ・フィルムでつづるkemukemu

大道芸、昔の広告、昔のテレビ番組、中井久夫、フーコー

「戦争とストレス」語録 10

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その1『戦争における「人殺し」の心理学』から ~9
(デーヴ・グロスマン著)



「 恐怖と疲憊(ひはい)の向こうには凄惨な世界が広がっている。その世界は兵士を取り巻き、五感に襲いかかってくる。
 負傷者や死にゆく者の哀れな悲鳴が聞こえる。糞尿と血のにおい、肉の焼けるにおい、腐敗臭、それが混じり合って胸の悪くなる死臭を漂わせる。砲撃と爆破に痛めつけられて地面が揺れるのを感じる。大地がうめいているかのようだ。腕に抱いた戦友が息を引き取るときの最後の身震い、そして流れる血の生暖かさを感じる。共通の悲しみと親友と抱きあえば、血と涙の味がする。自分の涙なのか友の涙なのかわからず、気にもならない。

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 みょうな話だが、戦闘の参加者である戦闘員のほうが、こんなおぞましい記憶に大きな影響を受けるようだ。非戦闘員、たとえば通信員や民間人や捕虜など、戦闘地域の受け身の観察者はさほどの影響を受けない。
 戦闘中の兵士は、周囲の惨状に深い責任感と後ろめたさを感じるらしい。敵が死ねば自分が殺したように思い、味方が死ねば自分のせいのように思うのである。このふたつの責任感と折り合いをつけようと苦労するうえに、周囲の凄惨な状況に対する罪悪感までが加わるのだ。」




「人間は、好かれたい、愛されたい、自信をもって生きてゆきたいと切望している。意図的で明白な他者の敵意と攻撃は、ほかのなによりも人間の自己イメージを傷つけ、自信を損ない、世界は意味のある理解できる場所だという安心感をぐらつかせ、しまいには精神的・身体的な健康さえ損なうのである。」




「 ダイアによれば、強制収容所の人員(*管理者)にはできるだけ<凶悪犯とサディスト>が充てられたという。空襲の犠牲者とちがって、収容所の犠牲者はサディスティックな殺人者の顔をまともに見なければならず、ほかの人間に人間性を否定されているという事実、みずから手を下して虫けら同然に虐殺するほど、だれかが自分や家族や民族を憎んでいるという事実に直面しなければならなかった。
 戦略爆撃の際、パイロットと爆撃手は距離によって保護されており、特定のだれかを殺そうとしている事実を否認することができた。同様に民間人の爆撃犠牲者も距離によって保護されており、だれかが個人的に自分を殺そうとしているという事実を否認することができた。

・・・・(中略)


 一般的な兵士は、殺人および殺人の義務に精神的に抵抗を感じるだけでなく、だれかが自分を憎み、殺したいほど人間性を否定しているという明白な事実にも、同じように嫌悪を抱いているのだ。
 敵の明白な攻撃行動に対する兵士の反応は、一般に激しいショック、驚愕、そして怒りである。これは多くの帰還兵が口をそろえて語るのとまったく同じ反応だが、ベトナム帰還兵にして小説家のフィリップ・カプトは、ベトナムで初めて敵の銃火に遭遇したときの気持ちをこう書いている。
 「どうしてこのおれを殺そうとするんだ? おれが何をしたっ  ていうんだ」
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(つづく)