大道芸観覧レポート モノクロ・フィルムでつづるkemukemu

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「戦争とストレス」語録 12

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その1『戦争における「人殺し」の心理学』から ~11
(デーヴ・グロスマン著)




「 すでに数々の研究で結論づけられているように、戦闘中の人間はたいていイデオロギーや憎しみや恐怖によって戦うのではない。そうではなくて(1)戦友への気遣い、(2)指導官への敬意、(3)その両者に自分がどう思われるかという不安、(4)集団の成功に貢献したいという欲求、という集団の圧力と心理によって戦うのである。
 たびたび目にすることだが、戦闘中に兵士のあいだに生まれる強力なきずなは、夫婦のきずなよりなお強いと古参兵たちは言う。

(中略)

 このきずなが非常に強烈なために、戦友の期待を裏切るのではないかという恐怖で頭がいっぱいなのだ。・・・・・
 仲間の期待に応えられないのではないかという兵士の不安は非常に大きい。これほど強い友情と同志愛で結ばれた仲間を思うように支えられなかったら、罪悪感やトラウマは底無しに深い。しかし、程度の差はあれ、どんな兵士も指揮官もこの罪悪感をかならず感じているものだ。まわりで戦友が死んでいるのに発砲もしなかったことを自覚している者にとっては、この罪悪感はまさにトラウマ的である。」




「殺人の義務と、その代償によって生じる罪悪感、このふたつのあいだで悩むことが、戦場での精神的被害を生み出す大きな原因になっている。」



「 殺された兵士は苦しみも痛みもそれきりだが、殺したほうはそうはいかない。自分が手にかけた相手の記憶を抱えて生き、死なねばならない。教訓はいよいよはっきりしてくる。戦争の実態はまさしく殺人であり、戦闘での殺人は、まさにその本質によって、苦痛と罪悪感という深い傷をもたらす。」




「 戦争による罪悪感、それにともなう倫理の問題については、心理学の分野さえ取り組みの姿勢がじゅうぶんでないようだ。ピーター・マリンは「良心の呵責」の影響力と実態を表現する心理学用語の「不適切さ」を批判している。この社会全体が、倫理的な苦しみすなわち罪悪感に対処できずにいるようだ、と彼は言う。
 罪悪感は神経症や病理として扱われ、「そこから学ぶべきものではなく避けるべきものとして、それが過去への苦痛に満ちた反応であれば、適切な反応(帰還兵にとっては当然の)ではなく病気として」扱われる。さらに、これは私も研究中に気づいたことだが、復員軍人庁の心理学者は罪悪感の問題をなかなか扱おうとしないとマリンは指摘している。それどころか、兵士が戦争中になにをしたかという問題さえめったにとりあげようとしない。同庁のある心理学者がマリンに言ったように、たんに「帰還兵の適応障害として治療する」のである。    」






(つづく)