大道芸観覧レポート モノクロ・フィルムでつづるkemukemu

大道芸、昔の広告、昔のテレビ番組、中井久夫、フーコー

「戦争とストレス」語録 11

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その1『戦争における「人殺し」の心理学』から ~10
(デーヴ・グロスマン著)




「 戦闘中の兵士は悲劇的ジレンマにとらわれている。殺人への抵抗感を克服して敵の兵士を接近戦で殺せば、死ぬまで血の罪悪感を背負いこむことになり、殺さないことを選択すれば、倒された戦友の血への罪悪感、そして自分の務め、国家、大義に背いた恥辱が重くのしかかってくる。まさに退くも地獄、進むも地獄である。」



「 作家ウイリアムマンチェスターは、第二次大戦に従軍したもと海兵隊員だが、接近戦において日本兵をみずから殺したあとで、後悔と恥辱にさいなまされたという。
「いまも思い出す。私はバカみたいに『ごめんな』とつぶやいて、それから反吐をはいた。・・・・・全身が自分の反吐にまみれた。それは、子供のころから言い聞かせられてきたことへの裏切りだった」。
 接近戦での殺人について語るとき、マンチェスターのおののきとよく似た心理的な反応を経験したという戦闘経験者はほかにもいる。」



「・・・ここでは殺人にたいする心理的反応の真髄をまともに表現している文章を紹介しよう。

・・・

 おまえは人殺しだと自分で自分を責めた。なんとも言いようのない不安に襲われ、犯罪者になったような気分だった。
           (ナポレオン時代のイギリス兵)

 人を殺したのはこのときが初めてだった。どのドイツ人を撃ち殺したかわかっていたので、ことが片づいたとき見にいった。もう女房も子供もいそうな歳だなと思って、ひどく申し訳ない気分になったのをに憶えている。
        (第一次大戦に従軍したもとイギリス兵)

 あのときは大したことと思わなかったが、いま思い出すと・・・・・私はこの手であの人たちを虐殺したんだ。皆殺しにしたんです。     
         (第二次大戦に従軍したもとドイツ兵)

 私はぎょっとして凍りついた。相手はほんの子供だったんだ。たぶん十二から十四ってとこだろう。ふり向いて私に気づくと、だしぬけに全身を反転させてオートマティック銃を向けてきた。私は引金を引いた。20発ぜんぶたたき込んだ。子供はそのまま倒れ、私は銃を取り落とし声をあげて泣いた。
     (ベトナムに従軍したアメリカ特殊部隊将校)

 ・・・・

 だから今度は、その近づいてきたプジョーにみんなで銃をぶっ放した。乗ってたのは家族づれだったよ。子供が三人、おれは泣いたよ。けどどうしようもなかったんだ。・・・・子供に親父におふくろ。家族全員みな殺しさ。だけど、ほかにどうしようもなかったんだ。
     (レバノン侵攻に従軍したもとイスラエル兵)



 殺人にともなうトラウマがいかに大きいか思い知らされたのは、ポールという人物に面接したときだった。
 第二次大戦時バストーニュで第101空挺部隊の軍曹として戦い、いまは海外戦争復員兵協会の支部長である。自分の経験、殺された戦友についてよどみなく話してくれたが、私が彼自身の殺人体験について質問すると、戦場ではだれが殺したかはっきりわかるものではないという。そのうち、ポールの目に涙が浮かんできた。長い沈黙があって、彼はようやく言った。「でも、一度だけ・・・・・」そこで、老紳士はすすり泣きに声を詰まらせた。顔は苦しげにゆがんでいる。「いまも苦しんでおられるんですか。こんなに年月が経ったのに」私は驚いて尋ねた。「そう。こんなに年月が経ったのにね」それきり、この話にふれようとしなかった。・・・・」






(つづく)

「戦争とストレス」語録 10

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その1『戦争における「人殺し」の心理学』から ~9
(デーヴ・グロスマン著)



「 恐怖と疲憊(ひはい)の向こうには凄惨な世界が広がっている。その世界は兵士を取り巻き、五感に襲いかかってくる。
 負傷者や死にゆく者の哀れな悲鳴が聞こえる。糞尿と血のにおい、肉の焼けるにおい、腐敗臭、それが混じり合って胸の悪くなる死臭を漂わせる。砲撃と爆破に痛めつけられて地面が揺れるのを感じる。大地がうめいているかのようだ。腕に抱いた戦友が息を引き取るときの最後の身震い、そして流れる血の生暖かさを感じる。共通の悲しみと親友と抱きあえば、血と涙の味がする。自分の涙なのか友の涙なのかわからず、気にもならない。

・・・・

 みょうな話だが、戦闘の参加者である戦闘員のほうが、こんなおぞましい記憶に大きな影響を受けるようだ。非戦闘員、たとえば通信員や民間人や捕虜など、戦闘地域の受け身の観察者はさほどの影響を受けない。
 戦闘中の兵士は、周囲の惨状に深い責任感と後ろめたさを感じるらしい。敵が死ねば自分が殺したように思い、味方が死ねば自分のせいのように思うのである。このふたつの責任感と折り合いをつけようと苦労するうえに、周囲の凄惨な状況に対する罪悪感までが加わるのだ。」




「人間は、好かれたい、愛されたい、自信をもって生きてゆきたいと切望している。意図的で明白な他者の敵意と攻撃は、ほかのなによりも人間の自己イメージを傷つけ、自信を損ない、世界は意味のある理解できる場所だという安心感をぐらつかせ、しまいには精神的・身体的な健康さえ損なうのである。」




「 ダイアによれば、強制収容所の人員(*管理者)にはできるだけ<凶悪犯とサディスト>が充てられたという。空襲の犠牲者とちがって、収容所の犠牲者はサディスティックな殺人者の顔をまともに見なければならず、ほかの人間に人間性を否定されているという事実、みずから手を下して虫けら同然に虐殺するほど、だれかが自分や家族や民族を憎んでいるという事実に直面しなければならなかった。
 戦略爆撃の際、パイロットと爆撃手は距離によって保護されており、特定のだれかを殺そうとしている事実を否認することができた。同様に民間人の爆撃犠牲者も距離によって保護されており、だれかが個人的に自分を殺そうとしているという事実を否認することができた。

・・・・(中略)


 一般的な兵士は、殺人および殺人の義務に精神的に抵抗を感じるだけでなく、だれかが自分を憎み、殺したいほど人間性を否定しているという明白な事実にも、同じように嫌悪を抱いているのだ。
 敵の明白な攻撃行動に対する兵士の反応は、一般に激しいショック、驚愕、そして怒りである。これは多くの帰還兵が口をそろえて語るのとまったく同じ反応だが、ベトナム帰還兵にして小説家のフィリップ・カプトは、ベトナムで初めて敵の銃火に遭遇したときの気持ちをこう書いている。
 「どうしてこのおれを殺そうとするんだ? おれが何をしたっ  ていうんだ」
                             ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」







(つづく)

「戦争とストレス」語録 9

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その1『戦争における「人殺し」の心理学』から ~8
(デーヴ・グロスマン著)



「 戦闘で兵士がこうむる精神的損傷には、奥深くに隠された原因がある。むき出しの攻撃的対決にたいする抵抗感、それが死や負傷への恐怖とあいまって、戦場のトラウマとストレスの多くを引き起こしているのである。つまり、恐怖の支配は兵士のジレンマを引き起こす一因にすぎないということだ。恐怖、疲労、憎悪、嫌悪、そしてこれらの要因と殺人の必要性とを天秤にかけるというとうてい不可能な難行、これらがみな結託して襲いかかってきて、ついには罪悪感と嫌悪感の深い泥沼に兵士を追い込み、正気と狂気を分ける一線を踏み越えさせてしまうのだ。これらの要因のうちでは、恐怖はごくささいな役割しか果たしていないのかもしれない。」



「 では、水兵が精神に変調をきたさないのはどうしてなのだろうか。陸上の同類と同じく、現代の水兵は恐ろしい戦火に焼かれ、恐ろしい死にかたをする。あたり一面死と破壊だらけだ。それでもダウンしない。なぜだろうか。
 その答えはこうだ。-水兵のほとんどは直接手を下して人を殺さないからだ。また個別に直接的に水兵を殺そうとする者がいないからである。
 ダイアによれば、砲手や爆撃機の乗組員や海軍将兵には、殺人の抵抗が見られないという。これは「ひとつには、機関銃手が発砲を続けるのと同じ圧力のためであるが、なにより重要なのは、敵とのあいだに距離と機械が介在していることだ」。したがって「自分は人を殺していないと思い込む」ことができるのである。

 接近戦で直接人を殺すのでなく、現代の海軍が相手にするのは艦船や航空機である。もちろん船や飛行機には人が乗っているのだが、心理的機械的な距離によって現代の水兵は守られている。第一次・第二次大戦の軍艦は、肉眼では見えない敵艦に砲弾を浴びせることが多かった。対空砲でねらう航空機は、たいていの場合は空の一点でしかない。自分と同じ人間を殺していることも、自分を殺そうとしている敵がいることも頭ではわかっているが、心理的にはその事実を否定することができる。

 同様の現象は空中戦でも起きている。先にのべたように、第一次・第二次大戦ではまだ航空機の速度が比較的遅かったので、敵のパイロットを見ることができ、そのために大多数のパイロットは積極的に攻撃することができなかった。だが<砂漠の嵐>作戦(*湾岸戦争でのイラクへの攻撃)では、パイロットはレーダースコープに映るだけの敵と戦っていたから、そんな問題はまったくなかったのである。」




「 戦略爆撃機下の民間人、砲撃や爆撃を受ける捕虜、現代の海戦を戦う水兵と同じように、敵前線後方の斥候に出る兵士がふつう精神的ストレスを免れているのは、なによりもまず戦闘のストレスを引き起こす最大の要因がそこに存在しないからだ。かれらには面と向かって敵を攻撃する義務がない。たしかに危険きわまりない任務ではあるが、死と負傷への恐怖および危険は、戦場における精神的損傷の第一の原因ではないのである。」



「 パイロットや爆撃機の乗組員は、距離が介在しているおかげで、自分が何千という罪もない市民を殺していることをあるていど否定することができた。それと同じように、環境とそれに関わる距離が、民間人と捕虜の爆撃犠牲者,水兵、そして敵前線後方の斥候にとっては緩衝材となり、自分を殺そうとする敵の存在を否認することができたのだ。要するに、わがこととして引き受けていなかったのである。

(中略)

 戦闘経験者と戦略爆撃機の犠牲者は、どちらも同じように疲労し、おぞましい体験をさせられている。兵士が経験し、爆撃の犠牲者が経験していないストレス要因は、(1)殺人を期待されているという両刃の剣の存在(殺すべきか、殺さざるべきかという妥協点のない二者択一を迫られる)と、(2)自分を殺そうとしている者の顔を見る(いわば憎悪の風を浴びる)というストレスなのである。」





(つづく)

「戦争とストレス」語録 8

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その1『戦争における「人殺し」の心理学』から ~7
(デーヴ・グロスマン著)




(前回からのつづき)

「・-妄想および強迫状態

 転換ヒステリーと症状は同様だが、この状態の兵士は自分の症状が病的であること、その根本原因が恐怖であることを認識している。にもかかわらず震え、発汗、どもり、チックなどを抑制することができない。そのために自分の身体症状に対して罪責感を覚え、それを免れるために結局はヒステリー反応に逃避することのなりやすい。


・-性格障害

 強迫的性格ー特定の行動または事物に固着する。妄想傾向ー短気、抑鬱、不安をともない、自分の身に危険が迫っていると感じる場合が多い。分裂傾向ー過敏症および孤立につながる。癲癇性格反応ー周期的な激しい怒りを伴う。極端かつ劇的な信仰に目覚めるのも性格障害のひとつの現れである。いずれも最終的には精神病的人格につながる。ここで生じているのは基本的な人格の変化である。

 以上は、精神的戦闘犠牲者に見られる症状のごく一部である。
ゲイブリエルはこう書いている。
「身体症状を引き起こす心の力は無尽蔵である。いくらでも症状を生み出せるだけでなく、なお悪いことにそれを精神の奥深くに埋め込んでしまうので、表に現れる症状はその下に埋もれた症状の症状に過ぎず、真の原因はさらに奥深く隠されているのだ」。
                            」



「考えれば考えるほど、戦争とは人間が参加しうる最も恐ろしく最もトラウマ的な行為のひとつではないか、と思わずにはいられない。ある程度の期間それに参加すると、98パーセントもの人間が精神に変調をきたす環境、それが戦争なのだ。そして狂気に追い込まれない2パーセントの人間は、戦場に来る前にすでにして正常なのではない、すなわち生まれついての攻撃的社会病質者らしいというのである。」





(つづく)

「戦争とストレス」語録 7

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その1『戦争における「人殺し」の心理学』から ~6
(デーヴ・グロスマン著)




「 リチャード・ゲイブリエルの「もう英雄は要らない」では、精神的戦闘被害のさまざまな症状や発現例が歴史的に検討されている。ゲイブリエルがあげているのは、疲労症状、錯乱状態、転換ヒステリー、不安状態、妄想および強迫状態、そして人格障害である。


・-疲労

身体的・精神的な疲憊(極度の疲労*ひはい)状態であり、最初期のひとつ。しだいに無愛想になり、ちょっとしたことでもいらだち、仲間との共同作業に興味を失い、身体的・精神的な努力の必要な仕事や活動はすべて避けようとする。いきなり泣き出したり、発作的に激しい不安や恐怖に襲われるようになる。音への過敏症や過度の発汗や動悸といった身体症状が現れることもある。このような疲労症状は、より進んだ完全な虚脱に至る前段階である。さらに戦闘を続けるよう強制されると例外なく虚脱を起こす。


・-錯乱状態

 疲労はすみやかに現実からの病的解離に移行しやすい。これが錯乱状態の特徴である。自分がだれでここがどこなのかわからなくなる場合が多い。環境に対処できず、精神的に現実から逃避する。症状としては譫妄(*せんもう)、病的解離、躁鬱的な気分の変動があげられる。よく目立つ反応としてガンザー症候群がある。冗談を言いはじめ、とっぴな行動をとり、あるいはユーモアや軽口に恐怖を紛らそうとする。
・・・・


・-転換ヒステリー

 戦闘中に心的外傷によって起きたり、何年もたってから心的外傷後障害として発症する。自分がどこにいるかわからない、任務を果たせないといった症状を呈し、だれもが恐れる戦場を平然と徘徊するなどの行動をともなう場合が多い。健忘症を起こし、記憶の大半を失うこともある。ヒステリーから痙攣発作を起こすことも多く、発作時は胎児のように丸くなって激しく震える。

 ゲイブリエルによれば、両大戦中、腕の痙性麻痺の症例はごく一般的に見られたという。この場合、麻痺は引金を引くほうの腕に現れるのがふつうである。ヒステリーが起きやすいのは、脳震盪で失神したあと、運動障害を起こすほどでない軽傷を負ったあと、九死に一生を得るような体験のあとなどである。また、負傷して病院または後方に後送されたあとで発現する場合もある。戦場から離れてからヒステリーが起きるのは、戦闘復帰に対防衛の場合がきわめて多い。身体的な症状はさまざまだが、戦闘の恐怖から逃避しようとして精神が引き起こす症状であることに変わりはない。


・-不安状態

 不安状態の特徴は激しい疲労感および緊張感で、これは睡眠や休息では軽快せず、悪化すると集中力が失われる。眠っても恐ろしい悪夢を見て何度も目が醒める。しまいには死ぬことしか考えられなくなったり、へまをしでかすのではないか、自分が臆病者になのを仲間に悟られるのではないかという恐怖にとり憑かれたりする。全身性の不安は完全なヒステリーに移行しやすい。息切れ、脱力、疼痛、目のかすみ、めまい、血管運動異常、失神をともなうことも多い。
 その他の反応として情動性高血圧がある。戦闘から何年ものちに現れるもので、心的外傷後ストレス障害(PTSD)に苦しむベトナム帰還兵によく見られる。発汗、不安などのさまざまな随伴症状をともなって、血圧が急激に上昇するという症状である。

                            」




(つづく)

「戦争とストレス」語録 6

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その1『戦争における「人殺し」の心理学』から ~5
(デーヴ・グロスマン著)



「・・・ホームズの記録しているあるベトナム帰還兵によれば、彼とともに戦った海兵隊員たちは、戦闘のあとにある悟りに達していたという。

「自分たちが殺した若いベトナム人は、個の存続というより大きな戦争では同志なのだと感じるようになった。顔のない<世間>との戦争では、あの若者たちとは生涯通じて仲間なのだと」

ホームズは、アメリカ兵の精神について時代を超えた鋭い考察を残している。

北ベトナムで歩兵を殺すことで、アメリカの歩兵は自分の一部を殺していたのである」。

 この真理から人が目をそむけるのはそのためかもしれない。殺人への抵抗の大きさを正しく理解することは、人間の人間に対する非人間性のすさまじさを理解することにほかならないのかもしれない。

 グレン・グレイは第二次大戦の体験から罪悪感と苦悩に駆られ、この問題について考え抜いたあらゆる自覚的な兵士の苦悩をこめてこう叫ぶ。

 「私もまたこの種に属しているのだ。私は恥ずかしい。自分自身の行いが、わが祖国の行いが、人類全体の行いが恥ずかしい。人間であることが恥ずかしい」。

 グレイは言う。

 「良心に反する行為を命じられた兵士が抱く疑問、そこに始まる戦争にたいする感情の論理は、ついにはここまで達するのである」。
このプロセスが続けば、「良心に従って行動することができないという意識から、自分自身に対する嫌悪感にとどまらず、人類全体に対するこの上なく激しい嫌悪感が生じる場合がある」。

(中略)

 殺人への抵抗が存在することは疑いをいれない。そしてそれが、本能的、理性的、環境的、遺伝的、文化的、社会的要因の強力な組み合せの結果として存在することもまちがいない。まぎれもなく存在するその力の確かさが、人類にはやはり希望が残っていると信じさせてくれる。」






(つづく)
                   

「戦争とストレス」語録 5

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その1『戦争における「人殺し」の心理学』から ~4
(デーヴ・グロスマン著)




「 ダイアもまたこの問題を真剣にとりあげ、理解を深めていった。彼の調査に応じた人々がよく知っていたこと、そしてダイア自身も理解していたのはこういうことだー

 「人は強制されれば人を殺す。それが自分の役割だと思えば、そして強い社会的圧力を受けていれば、人はおよそどんなことでもするものだ。しかし、人間の圧倒的多数は生まれながらにしての殺人者ではない」

 この問題にまともにぶち当たることになったのが、アメリカ陸軍航空隊(現アメリカ空軍)である。第二次大戦中、撃墜された敵機の30~40パーセントは、全戦闘機パイロットの1パーセント未満が撃墜したものだとわかったのである。ゲイブリエルによれば、ほとんどの戦闘機パイロットは「1機も落としてないどころか、そもそも撃とうとさえしていなかった」

・・・・・

いざという瞬間になると、敵機のコクピットに人間の顔が見える。パイロット、飛行機乗り、<空の兄弟>のひとり、恐ろしいほど自分とよく似た男の顔。そんな顔を目にしては、ほとんどの兵士が相手を殺せなくなるのも無理はない。戦闘機のパイロットも爆撃機パイロットも、自分と同種の人間と空中戦を戦うという恐ろしいジレンマに直面する。

(中略)

 ごくふつうの人間は、なにを犠牲にしても人を殺すのだけは避けようとする。このことはしかし、戦場の心理的・社会的圧力の研究ではおおむね無視されてきた。同じ人間と目と目が会い、相手を殺すと独自に決断を下し、自分の行動のために相手が死ぬのを見るー戦争で遭遇するあらゆる体験のうちで、これこそ最も根源的かつ基本的な、そして最も心的外傷を残しやすい体験である。このことがわかっていれば、戦闘で人を殺すのがどんなに恐ろしいことか理解できるはずだ。」




「 情報化の進んだ現代社会では、殺人はたやすいという神話の助長にマスコミが大きく貢献しており、殺人と戦争を美化するという社会の暗黙の陰謀に加担する結果になっている。ジーン・ハックマンの「バット21」(ある空軍将校が気まぐれに自分の身近な人々を殺してしまい、自分の行為に恐れおののく)のような例外はあるものの、だいたいにおいて映画に登場するのはジェームズ・ボンドであり、・・・、ランボーであり、インディ・ジョーンズだ。かれらはあたりまえのような顔をして何百人もの人間を殺してゆく。ここで重要なのは、マスコミの描く殺人も、これまで社会が描いてきた図と同じく実態からはほど遠く、鋭い洞察など薬にしたいほどもないということだ。


(中略)



しかし、この問題があまり注目されていないのは、極秘の基本計画のせいなどではない。哲学者にして心理学者であるピーター・マリンの言葉を借りれば、<大がかりな無意識の隠蔽>のせいなのである。これによって、社会は戦争の本質から目をそむけているのだ。戦争についての心理学・精神医学の文献にさえ、「一種の狂気が作用している」とマリンは書いている。「殺人に対する嫌悪感および殺人の拒絶は、<戦闘に対する急性反応>と呼ばれ、<殺戮および残虐行為>によるトラウマは、「ストレス」と呼ばれる。まるでエグゼクティブの過労のことでも話しているかのようだ」。「文献をいくら読んでも、実際に戦場で起こっていることはちらとも見えてこない。戦争のほんとうの恐ろしさも、そこで戦う者が受ける影響についても」。
心理学者として、マリンのこの指摘はまったく正しいと私は思う。
 いまでは、この種(発砲率など)の問題を50年以上も機密にしておくのはまず不可能だ。軍のなかでも心ある人々は声をあげているのだが、彼らの訴える真理に耳を貸そうとする者がいないのである。
 これは軍の陰謀などではない。たしかに隠蔽もあり、「暗黙の緘口令」もあるが、それは文化による陰謀である。私たちの文化は、何千年も前から戦闘の本質を忘却し、歪曲しあるいは偽ってきた。」





(つづく)